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最近のモヤモヤが晴れる思いだ。

自分がコーチングを受けてこそ、コーチたれる部分もある。

偉そうな書き出しではあるが、実のところ、自分もまた一つ何か目標を目指す一人の人間なので、コーチングの力に頼ることがあるのだ。

しかし、コーチングを受けるにおいても、自分似合っているかどうかというところは実のところ悩ましいと頃である。

初めてコーチングをうけるのであれば何が正しくて何が自分似合っていないのか、とか中々気づけないことも多い。

そして、自分の心の声に耳を傾けられないからそこコーチングに行き着いていることも考えると、初手で相手(コーチ)と自分の相性を見抜けることは至難の業でもある。

(加えていうと、やっていく中で相性の悪さや良さに気づこともあるだろう)

そんな悩ましいことの判断基準の一つに光がさすような気持ちになったノートのエントリーがある。

コーチングをやっている方で情報収集をしている人であれば一度はたどり着いたことがあるであろう、アナザーヒストリーの代表、だいじゅさんのnoteだ。

直近のエントリーにこんなのがあった。

非常にいいエントリーなので、ぜひ読んでもらいたい。
これぞ読みよかった。

そして自分の心で感じていたけど言葉にできなかった文章であると思った。

「もう何もいうまい」という思いをした体験を書いてくださっているのだけど、本当にそうなるのだ。自戒も込めていうが、本当にそうなのだ。

職場での後輩指導で、無理矢理にでも仕事をやってもらうための方便としてリフレーミングを使って物事を説明したりすることはあれど、コーチングの中では出会いたくないこと、ほぼNo.1が「そう思えないリフレーミング」ではないだろうか。(自分調べ)

確かに物事には、別の視点から見た別の解釈というものがあるかも知れない。善意、出会ってもそこには意思が介在してる以上、コーチの意図が入ってしまうので、非常にセンシティブなことなのではないだろうかと思う。

自分の通っているスクールでは、リフレーミングはスキルとして教えていて、その練習もするが、練習をするがゆえに、やっていいと許可をされているような認識になってしまっていて、どこまでやってしまっていいのか、その範囲と状況については正解の感覚が持てずにいる。

しかし、だいじゅさんのエントリーを読んで、これはやはりコーチが操作的になりうるんだ、と理解できたので、今後はより慎重になりたいし、リフレーミングを受ける場合は、嫌なら嫌という意思表示をするべきなのかもと、ぼんやりと思ってしまった。

ということで、今日はこんなところで。
また、よろしく。

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