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タカラヅカの「作品」を語るnoteをはじめます

タカラヅカを観劇するようになってからは5~6年程。
まだまだ歴浅のファンです。

普段は会社員編集者の傍ら時折ライター業もしており、なんだかんだ浅く細く、言葉やエンターテイメントに関わる仕事に触れてきている人物なのですが、
そんな立場から、そしてささやかな一ファンとして、主にSNSでのファンの「語り」について、どうにも何か不足した感覚を抱くことがしばしば。


これは、単純に極端化された言葉に注目が集まりやすいSNSというものの特性も関係しているのだろうと思うのですが、
ファンの「作品そのもの」への語りが、「偶像としてのスター」を語る言葉に比してあまりに少ない、あったとしても、目に留まることが少ない。

もう少し具体的に言うならば、
舞台上であれ、メディア上での姿や発言であれ、たまたま見かけたオフの様子であれ、
結局は「誰がどこで何をやっていた」「誰々をどこそこで見かけた」というような「中の人」の動向の語りばかりに注目が集まりやすく、
一方で、作品そのものの内容について考え、そこから受け取ったものについて詳細に言語化された言葉が(あるにはあるが)比較的少ない、ということ(*)。


こうした「作品の内容そのものへの語りの少なさが気になる」という視点は、もしかすると、ポピュラーカルチャー(主に音楽)の、分析や論評(批判ではない)に関わる筆者だからこそ抱いてしまう感覚なのかもしれません。
また、そうした語りの少なさは、アイドル的な側面を持つエンターテイメント全てに言えることかもしれまん。

そして無論、タカラヅカのスターにもアイドル的な側面も多分にあり、それこそが彼女たちの商売の大事な一要素であるから、ファンがそれを語る言葉を否定するつもりはありません(私自身もそうした語りをすることも多いです)。

けれど、個人的には、自分個人の満足のために、もう少し「作品を語る」ということをやってみたい。そう常々思っていました。


ただ、それをSNSでやるのは、いささか難しい。

短文型のSNSでは、あの150字に満たない文字数に収まる言葉の「大喜利」が得意な人の、刺激の強い声ばかりしか広がっていかない。

だからこそ、それが作品の感想であれ、スターへの賞賛の声であれ、劇団への不満の声であれ、あらゆる事象が安易に単純化され、誇張され、切り取られ、それが恐ろしいスピードでどんどん増幅していく。

その様に、居心地の悪さやある種の無力感も常に抱いてきました。特に、昨年の今頃以降は。


そこで、こうしたnoteという形でまとめてみることにしてみました。

「作品を語る」などど見栄を切ってみたものの、もちろんタカラヅカの作品はスターありきの舞台作品であるから、スター自身を語る言葉の一切を切り離して作品を語ることには無理があるとは思うのです。

でも、その時々の観劇や鑑賞で感じた作品に対する自分なりの分析、作品から持って帰ってきたものは、やっぱり忘れてしまわないうちに、ここには置いておきたい。

「誰々さんがどこそこの場面でああいうことをやっていて素敵だった♪」といった感想以外の視点を、きちんと残しておきたい
その身を投じて、作品を作りあげる人たちへの、リスペクトを込めて。

もちろん作品を語るために、スター自身のパフォーマンスや存在感の特性に目を向ける必然性が出てくると思いますが、
あくまで「スターをアイドル視しない観劇記録」、これをはじめてみたいと思います。


コンスタントに投稿できる気も全くしませんが笑、マイペースに、自己満足のための場所として。

なお、私自身は舞台や舞台作品に対する専門的な知識には乏しく(しがないライターとしての本分はポピュラー音楽なのです)、前述の通りファン歴も浅く、的外れな部分や知識不足も多々あると自覚しておりますが、どうぞ温かい目でご容赦いただけたら幸いです。

【予告】
まずは、2024年月組全国ツアー公演「琥珀色の雨にぬれて」についてのテキストを投稿予定


*注:
演出やセリフの主観的な好みについての語りは見かけることもあるのですが、ここで言っているのは、作品から何が読み取れるのか?、脚本や演出の意図は?といった、俯瞰的な分析を伴う語りのことを指しています。

こうした分析的な語りは、もちろん一部のファンの方には見受けられ、舞台が本分ではない筆者の感想よりもずっと示唆に富んでいる印象です。また、タカラヅカ以外の舞台などでは、より見かけることが多いように感じます。

※補足:
果たしてスターありきのタカラヅカのフィールドでそうした視点をどれだけ持ち込むことが可能なのかどうか、という個人的な目的もあります。

また、それがたとえポジティブなものであれ、内部の人間関係を物語化して消費するファンのまなざしや語りは、翻って、彼女たちへの悪意あるスキャンダラスなまなざしとも裏表の関係にあり、根本的には同じ心性から派生するものであるとも感じます。
だからこそ、そうした視点を切り離してタカラヅカを語ってみることには一定の意味があるのではないか。そんな想いも込めています。

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