ファンタジア妖精遊能譚第2話





2.夢見る僧 春夏


 春の夕暮れ、心療内科を専門にする医師マヤは午後の診察を終えて、診察室の窓を開けた。
ここ都心のクリニックは川沿いのレトロなビルの3階にあり、地下鉄の駅からも近く、開業して一年になるが、思いの外患者さんが増えて、あまりの忙しさに、新患は当分お断りすることにしようとマヤは思っていた。
窓から見える桜並木を老夫婦らしきカップルが散策している。独身のマヤはふとあのような老後もいいのかもしれないと思った。
帰り支度をしていると、受付の方で何か気配がした。スタッフは既に帰っている。
「お願いします」と声がする。
「もう今日は終わりました。」とマヤは近づきながら言った。
すると、
「いつもいっぱいで受けつけてもらえないので、申し訳ありませんが、何とかお願いできないでしょうか」と言うその姿は立派な装束のお坊さんである。
しかも初めの僧の後から「お願いします」と二人目、三人目とぞろぞろ続いて入ってくる。山伏も混じっているようだ。

マヤは驚いたが、
「みなさん、お急ぎですか?」と言った。
すると、口々に「疲労」、「不眠」、「自律神経失調」などの症状が出ているという声の他に、
「なぜかいつも旅をしている」
「誰もいないのにまず自己紹介をする」
「地縛霊に会う」
「オフなのにお弔いをさせられる」
などと言う声がモワモワと煙のように湧いて出ているようだった。

これは一体? マヤは状況を整理できずに言った。
「何人おられるのですか?」
「さあ、わかりません。」一番目の僧は答える。
「今日はもう終わりですので、お困りのようでしたら明日から特別に予約枠を入れます。今日はどうぞお引き取りください。」とマヤは言った。
すると意外にすんなり、「はい、わかりました」と僧たちはしずしずと引き上げて行った。

今のはなんだったんだろう。マヤは黄昏の窓の外をまた眺めた。空気が歪んだように桜並木が揺れている。春宵一刻値千金という謡の声が川の方から聞こえたような気がした。

<春 「田村」 >

 次の日、診察室に現れたのは、角帽子を付け、無地熨斗目に水衣を着た僧だった。こういう僧は能舞台で見たことはあるが、現代のなにかのイベントでこんなお坊さんいるのだろうか? その辺はよくわからなかった。
マヤは問診表を見ながら言った。
「吉田マサオさんですか? 
「はい、実は名前がわからないのです。カルテに名前がいると思ったので仮にそうしときました。」僧は数珠を握りしめて言った。
マヤの専門からは少し外れるが、こういうやりとりは珍しいことではない。
「それは記憶がないということですか?」と言うと、
「人は旅僧としか呼んでくれません。」と僧は悲しそうに言った。
そこでマヤは、
「旅というのはご職業ですか? 単なる個人的な旅行ではなく?」と訊いてみた。
「自分ではわかりません。気が付いたらいつも旅をしています。いつになったら家に帰れるのでしょうか。と言ってもどこが家なのかわかりませんが。」と、僧は笑いそうになったのか急に黒檜扇を口元にやった。一瞬変なユーモアの空気が漂った。
「それはー。ご家族はいらっしゃるのですか?」とマヤは尋ねた。
「いいえ、いないと思います。記憶にありませんから。」
「ああそうですか」とうなづいて、
「それで、診察を受けたいと思われたのはどういうことで?」とマヤは言った。
「はい、いつも頻脈です。」
「ちょっと測りましょう。」とマヤは言って、脈を測った。
「100以上ですね。速いですね。いつもそうなのでしたら心臓の精密検査した方がいいかもしれませんね。」
「はい。」吉田は素直に言った。
「で、ほかになにか気になることは?」
「常に不安があります。自分が何者かわからないという。」
「ふーん。それであなた以外にも旅僧はいらっしゃるのですか?」とマヤは訊いてみた。
「はい、道ですれ違ったことがあります。ドッペルゲンガーかもしれません。頻々と出現しています。」
「うーん。ということはあなたと逆方向に向かっている旅僧なのですか。」
「はい、私は基本的に東国の方から都へ向かっています。しかし都からあちこちに向かう旅僧もいるのです。」
「それは別にドッペルゲンガーとは限らないのではないですか?」
「そうでしょうか。そうだといいですけど。」と吉田はすがるように言った。
マヤは行きがかり上もう少し訊いてみた。
「で、あなたは今はどの方面を旅されてるのですか?」
「東国から都への旅に出て三月に清水寺に着きました。
桜に見とれていましたら、一人の童子が出てきて、寺の創建者の坂上田村麻呂のことや周りの景色を説明するわけですよ。なんか人間離れした感じがしましたが、案の定。」
「案の定?」
「法華経を読誦してましたら、坂上田村麻呂が武将姿で出現しました。散々自慢を聞かされました。千手観音が味方してくれて、千の御手の一つ一つに弓を持って千の矢を放たれたので、敵はことごとく討たれたと、観世音を褒め称えて消えました。」

坂上田村麿と言えば奈良か平安時代の人である。桓武天皇の征夷大将軍だったはずだ。
マヤは言った。
「それからあなたはどうしましたか?」
「私はただお説を拝聴して、坂上田村麻呂が舞台から去るのを見送るだけです。そのあとの私の人生は何もありません。というか私は存在しないのです。」

このお坊さんはどこから来たのであろうか。
「それで、その旅は一回性のものですか? 清水寺への旅は?」
「私はその都度記憶を消されているのではないかと思うのです。何回も清水寺に行っているのに初めてのように思わされているのではないのかと。だけど、時折、デジャヴュの感覚を感じる時があります。」
私の手には負えない、とマヤは思った。しかしまた気を取り直して言った。
「あなたはその車の輪の回るような繰り返しを感じているのですね。」
「そうです。この人生の繰り返す輪から逃げるにはどうしたらいいでしょうか?」
「もう逃げることに半分成功したようなものです。ここに来たということは。」
「そうでしょうか。」
「そうですとも。」マヤはとにかく力強く言った。
「決めました。私はこの輪から飛び降ります。」

吉田はさっぱりした顔になって診察室を出ていった。

マヤは健康保険証もない吉田の診察料をどうしたらいいのか思案した。
どこから来たかわからないが現代のお金を持っているのだろうか? 
マヤの父は、終戦後と言われた時代、お金のない人は無料で診ていた。そのことを思い出し、とりあえず自分も旅僧は無料で診ようと思った。

<夏 「杜若」 >

 初夏になってマヤの診察室にまたあの旅僧がやってきた。そのいでたちは以前と同じ無地熨斗目に水衣で、わずかに違うのは襟の色だけである。
「再診です。」と看護婦がカルテを出してきた。
「吉田マサオさんですね。」カルテを見ながらマヤは言った。
「名前はわかりません。旅僧です。」吉田はキョトンとして言った。
「以前と同じ方のようですが、今度はどちら方面に行かれたのですか?」
「私は都在住ですが、東国行脚の旅に出ました。」
「調子はいかがですか。その後頻脈はどうですか。」
「頻脈? それは感じませんが、いつもイライラして、消化不良で逆流性食道炎になりました。」
「逆流性食道炎?  それは辛いですね。」
「はい。」
「イライラの原因はなんですか? 
「私は旅していてもいつも旅を満喫できないのです。」
「それはどういうことですか?」
「地縛霊か妖精に捕まってしまうのです。」吉田は嫌そうに言った。
マヤの専門とは少し外れるが、このような会話にマヤは慣れてきた。
「今回はどんなものに捕まったのですか?」
「花の精です。」
「いいじゃありませんか。」
「三河の沢辺に行き着くと、川辺に杜若が美しく咲いていました。」
「ほう。」
「見ていると里女が出てきたので、嫌な予感がしましたが、案の定、」
「案の定?」
「杜若のストーリーを語る訳ですよ。」
「杜若というと伊勢物語ですか。」
「ここの杜若はそんじょそこらの杜若でなく、濃い紫の素晴らしい花で、この花は人の形見として使われるものだと。『摘みをきし昔のやどの杜若色ばかりこそ形見なりけれ』という歌をひいて。この歌は業平のではありませんが、自分は在原業平となんか関係があったと。」
「へえ。」
「業平がカキツバタの五文字を頭にした歌を詠んだと。
『カキツバタ きつつ慣れにし つましあれば はるばるきつつ 旅をしぞ思ふ』」
「このつまは業平のどの愛人のことなのでしょう。」マヤも興味を惹かれて言った。
「二条の后高子らしいですよ。」と僧は言った。
「そして里女は私に自分の家に泊まってくれと言うのです。それはありがたいので行きました。そうしましたら、自分は杜若の精だと言うのです。まあわかってましたけどね。それから精は業平の冠と二条の后の着物を出してきて見せました。それから冠を身につけて舞を舞うのですよ。」
「その男女の着物を着て舞うというのは両性具有のような」とマヤは相手を忘れて言った。すると僧は平気な顔で続けた。
「そうですよ。業平は陰陽の神で、しかも業平は歌舞の菩薩の化身だったと。
よくわからない話です。とにかく業平を褒め称える訳ですよ。植物と女性を業平が成仏させたと。業平虫が良すぎませんか。」
「へえ。で、お経を上げさせられたんですか?」
「いいえ、一方的に謡って舞って悉皆成仏と言って消えました。」
マヤは杜若の精は業平と波動のようなエクスタシーがあったのかもしれないと思った。
僧は続けて言った。
「旅に出たらのんびりしたいじゃありませんか。なんでプレイボーイの業平の
ありがたさを聞かせられなくてはならないのか。」
「うーん。」
「一体なぜ私を自分の家に呼んだのか。そこまでして話したかったと言うのはまだ成仏してなかったんでしょうかね。」
「そうですねえ。とりあえず胃薬をお出ししておきます。」とマヤは言った。


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