今村夏子『星の子』レビュー。新興宗教の家族の物語の居心地の良さと不気味さ
今年の夏に『こちらあみ子』が映画化された。評判がいいみたいだが、『こちらあみ子』を読んで以来、今村夏子の小説を読み続けている。この『星の子』も芦田愛菜で映画化されたらしいが、未見だ。
旧統一教会の二世信者の話など、今やたらと話題になっている<カルト宗教>をめぐるある家族の物語だ。今村夏子は、カルト宗教に対して、否定も肯定もしていない。ちひろという少女が、赤ちゃんの頃から病気がちだったのが、父親の職場の落合さんに相談したところ、「水を変えてみては?」と勧められ、その「水」によって少女の病気が全快した。その奇跡から、この少女の家族が新興宗教にはまっていく話だ。
奇妙な宗教一家として次第に周りから疎外されていく少女の家族。学校でも近所でも、「あの家の子とは遊んではいけません」と言われ、ちひろは一人でいることが多くなる。叔父さんが必死になって「新興宗教のインチキぶり」を暴こうと、「特別な水」を水道水とこっそり入れ替えてみたりするが、家族には通じない。幼いちひろは自然に新興宗教の集会などに馴染んでいく。しかし姉のまーちゃんは違和感を感じ、家を出ていく。小説はあくまでの少女の目を通して、周りから疎外されながらも、仲の良い家族や集会での集まりの様子がつづられていく。ちひろと会話するようになる美人の転校生のなべちゃん、その彼氏の新村くん、同じ新興宗教に入っている春ちゃん、ちひろの憧れの存在である南先生など、ちひろの成長と彼女を取り巻く環境の変化が描かれていく。敬虔な信徒の落合さんのしゃべらない引きこもり息子に突然呼び出されてキスされそうになったり、南先生に車で家まで送ってもらった夜に、公園で緑のジャージ姿で水を掛け合っている異様な両親の姿を見られたり、ちひろは新興宗教の特別な世界と社会との距離について少しずつ感じていく。
特に強烈な印象を残すのは、『こちらあみ子』でも大好きな男の子に「あみ子」が殴られたのと同じように、憧れの南先生にちひろが教室で全否定される場面だ。「似顔絵を描かれるのも迷惑だし、その変な水も早くしまえ」と、みんなの前で残酷に否定されるのだ。今村夏子の世界は、社会にうまく溶け込めない孤立感のある少女や女性が多く登場するのだが、その孤独な存在が暴力的なまでに残酷に否定されるのだ。
もう一つ特徴的なのが、嘘の世界、虚構の世界をみんなで信じ込む、信じるフリをする、そして誰かがその嘘を残酷に暴いたりする話が多いことだ。『あひる』の死んだ<のりたま>は、別のあひると交換されても<のりたま>と呼ばれ続け、誰もがその嘘を信じるフリをしている。『ピクニック』という短編では、お笑い芸人と恋人同士だった嘘が女の子によって語られる。友達はその嘘を信じ、あるいは信じたフリをして盛り上がるが、一人だけ「ばかみたい」とその嘘を暴く物語だった。考えてみれば、宗教とは、みんなで噓を信じることだ。虚構の物語をみんなで信じること、その共通の価値観の中で居心地よく過ごすこと、それが宗教だ。その同じ嘘=物語=価値観にたいして、違和感を感じたり、嘘を指摘したりすることはタブー化され、共同体からはじき出されることになる。嘘と現実の矛盾は、嘘(物語)を重ねて修正されていく。今村夏子は、そういう嘘の共同性というもの、宗教と親和性が高いのかもしれない。社会となじめず、人と違うために疎外され、孤独なゆえに、嘘の物語へ没入していく親和性。その嘘の共同体内での居心地の良さ、みんなのやさしさに癒される。登場人物たちの<圧倒的な片思い>、その<熱情>も今村夏子の小説の特徴である。『こちらあみ子』の<のり君>、『星の子』の<南先生>、『むらさきスカートの女』の<むらさきスカートの女>、『モグラハウスの扉』の先生が憧れる<工事現場の男>。どれもが一方的で強い憧れの対象となる。その一方的な思いがいつも受け入れてもらえず、裏切られ、残酷に傷つくのだ。嘘の世界は共有されないという残酷さ。あるいは現実とかけ離れた嘘の共同体のいびつな恐ろしさ。
ラストは中学3年生になったちひろが家族で新興宗教の研修旅行に参加する。小高い丘で流れ星を家族で体をくっつけながら見る夜は、幸福そうでありながらも、何かの変化の予兆を孕んでいる。特別なコミュニティの中での居心地の良さと不自然さ。社会(他者)から向けられる敵意の視線。閉鎖的なコミュニティと外の世界の軋轢と違和。そんななかで少女が感じることを、善悪を決めつけずに、丁寧に描いている。