「恋に至る病」作品論まがいの何か
昔書いたブログ記事の再録です┏○
冒頭だけ少し修正しています。
先日、Twitterでおすすめの本をお聞きしたところ、マシュマロにて斜線堂有紀著「恋に至る病」を薦めて頂いたので読みました。ちょうどKindleで半額になっていたので、お得!と即決購入。私は普段、本は必ず紙媒体で読んでいるため抵抗感があったのですが、サクサク読める文体のため抵抗感がなかったです。
元々ブルーホエール事件に興味があり調べていたところでこの本に行き着き、名前だけは知っていたので読むいい機会になりました。
薦めてくださったフォロワーさん、ありがとうございます。人の好きなものを共有できるって、素敵なことですよね。おすすめの本、いつでも募集していますので、みなさん教えてください。
以下、作品論まがいと呼べるか到底分からない読書感想文チックなものですが、学生時代を思い出して書いてみました。あくまで一読者の考えなので、違うよ!と思っても、人それぞれの精神で「そういう考えもあるのね」と思っていただけたら幸いです。
もちろん、ネタバレしかないので今後読む予定がある方は、ブラウザバックでお願いいたします。
『青い蝶を捕まえたのは誰か』
ある日、小さくて慎ましやかな、そして完璧な秩序を保った箱庭に、一匹の青い蝶が舞い込んできた。ひらひらと舞うその微かな羽ばたきは空気を揺らし、それが風となって木々を揺らし、樹木に実った果実さえも揺れ落とす。
バタフライエフェクト。その僅かな変化はやがて、恋に至る病を産む。
「恋に至る病」は、紛うことなき恋愛小説である。
主人公の宮嶺望は幼馴染であり、小学生時代に陰惨ないじめから救ってくれた美人で聡明、誰からも好かれる寄河景に片想いをしていた。しかし善良な女神にさえ見えていた景は、実は150人以上の被害者を出した自殺教唆ゲーム『青い蝶(ブルーモルフォ)』の主催者だったのである。
確かな信念の元に自殺教唆ゲームを運営し続けるのだという景と、幼い頃にした「いつでも景のヒーローでいる」という約束を胸に思い通じあう二人。
加速する自殺ゲームの中で、やがて宮嶺は景の本当の姿に気づいていく、というのが本作のざっくりとしたあらすじである。
ここでは「寄河景」と「宮嶺望」、二人の呪いのような恋について紐解いていきたい。
1.寄河景の完璧な『箱庭』
「恋に至る病」を論じるにあたって避けられないのが、ヒロイン寄河景の存在である。
結論から言ってしまえば、私は景に対して、紛うこと無きサイコパスであるという所感を抱いている。
では、その「サイコパス」とは一体何なのか。間違ってもAIによって犯罪係数というシステムで管理される人間社会を描いた、ディストピアアニメではない。
コトバンクでは朝日新聞の記述を引用し、「「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」で精神障害者と定義されており、病名としては反社会性パーソナリティ障害に該当するとされている。サイコパスの特徴的性格は、冷酷・無慈悲・尊大・良心の欠如・罪悪感の薄さなど。」とされている。
ここで想起されるのが、宮嶺が転校してきた五年二組の一見微笑ましいようでいて、異様なその雰囲気である。
例を挙げれば本文でもあった通り、五年二組の委員会決めは対立候補が一切出ずすんなりと決まる。小学生だというのにまるで社会人のような、分別の良さ。これは全て、寄河景によるコントロールの賜物だ。
彼らは全員、景の言葉によって彼女が決定づけた委員会へ振り分けられる。宮嶺も景の「宮嶺くんは身の回りがきちんとしてるよね」という言葉を受けて、美化委員となった。
完璧に統率のとれた教室。寄河景は小学生にして、自分の所属するコミュニティを完璧な箱庭として作り出し、自身はその管理者として君臨していた。
それを最も印象付けるのが小学校時代に、主人公の宮峯と景が出会うシーンである。
景が管理する箱庭にある日放り込まれた、転入生の宮嶺望。
寄河景は、完璧主義者だ。
自身が管理する箱庭の秩序が異分子によって乱されることを、絶対に許さない。
かくして景は突然箱庭に降り立った部外者である転校生を自身の管理下に組み入れるため、自己紹介で躓きそうになった宮嶺を助けた。
転勤族だった親に「これが最後の転校だ」と言われて、失敗できないと追い込まれた彼にとって、彼女は救世主のように見えたことだろう。排他的になりそうなクラスの雰囲気を見事にコントロールすることで、宮嶺を五年二組の中へひとまず溶け込ませることができたというわけである。
しかし、これではただ「宮嶺という男の子が五年二組に加入した」という事実が受け入れられたのみで、景の管理する小さな社会の中に組み込まれた訳ではない。そこで彼女は、この箱庭における役割を彼に与えるのである。それは、『寄河景のヒーロー』という肩書きだった。
2.『景のヒーロー』
宮嶺が『寄河景のヒーロー』という烙印に似た肩書きを背負わされたのは、景が偶発的に見せかけて、自身に意図的に付けた顔の傷が切っ掛けだった。
校外学習の日に、二人は小さな女の子がいつの間にか無くしてしまった凧を見つける。それを取ってあげようとして整備中の滑り台に登った景は落下し、右目蓋に一直線、クレバスのような傷を負うのだ。しかし、彼女はのちに、あの凧は少女がトイレに行っている間に自分が盗んだのだ、と白状している。
傷を気にして学校にも来ず塞ぎ混んでいる景を励ました宮嶺は、「どんな時でも私の味方でいて」という彼女の言葉に、完璧な存在である寄河景の『等身大の女の子としての弱さ』を垣間見ただろう。
しかし、それは彼女の表面的な演技でしかなかった。自身を傷つけるすらことも、必要とあれば厭わない。一歩間違えば失明していたのだとしても。「景のヒーローでいる」そう口にした宮嶺にかけられたのは、呪いに他ならない。かくして宮嶺望という異邦人は、寄河景の管理する社会に繋がれたのである。
ここで着目したいのが、「景のヒーローでいる」という宮嶺の言葉だ。この言葉は物語の転換となる重要な部分でも何度も出てきて、印象深い。
ここまでの景と宮嶺の関係性を表すエピソードを読めば分かることであるが、「景のヒーローでいる」と言う宮嶺の決意に反して、寄河景の方が彼にとって絶対的なヒーローとして君臨している。転校初日にクラスに打ち解けるきっかけを作ってくれ、控えめな宮嶺が馴染めるようにと日常的にもさりげない配慮を忘れない。
紛うことなく、景は宮嶺のヒーローだ。
しかし校外学習での事故を契機に、景の完璧な少女という外皮に隠された年相応の弱さ(と、宮嶺は思い込んでいるだけで、景によって計算された演出)を目撃した宮嶺にとっては、彼女に守られることは耐えられなかっただろう。
自分のヒーローである景を追い越し、自分がその位置へと辿り着きたい。景を助け、支えたい。景に頼られたい。それが、宮嶺が望んでいることである。そして、それこそが寄河景が計算し構築した二人の結びつきに他ならない。
彼の「景のヒーローでいる」という願望をより切実にするために、また結びつきを強めるために彼女が次にとった行動は、クラス内で宮嶺をいじめさせるというものだったと推察される。
景が支配したこの学年には、たった一人の子供に流される人間ばかりだ。一人をその気にさせれば、宮嶺を孤立させることは赤子の手を捻るよりも簡単だっただろう。いじめられ、孤立した宮嶺を景が助ける。それは転校してきた当初、孤立しそうにいなっていた彼を助けた構図と全く一緒だ。一つ違うことは、宮嶺はいじめの事実を誰よりも景に知られたくないということだろう。
彼女のヒーローである自分が、守るべき対象に守られてしまうという矛盾。恋愛感情ゆえの羞恥。助けられた宮嶺はより、彼女のヒーローであろうとするために躍起になるだろう。
後半の彼女の言葉を借りるなら、景は宮嶺に「物語」をくれてやったのである。それは互いが互いのヒーローとなり、本当の味方はたった一人しかいないと錯覚させるものだ。
3.『宮嶺望』という異邦人
ここで生じるのは、「何故寄河景は、宮嶺望にそこまで執着するのか」という疑問だろう。
執着する理由として、この時点で既に景は宮嶺のことを好きだったのだとも考えられる。しかし私は、違うクラスになった宮嶺をいじめさせる時点では、景は彼を他の有象無象の人間たちと同列に捉えていたと考える。
何故、景が宮嶺にそこまで関わらなければいけないのか。それは全て、彼が「転校生」という異邦人だったからだ。景の箱庭の住人である、同じ学年の生徒たちと違うところは、およそ五年ほどの年月を寄河景と過ごしていないという点である。
一般的に、年月をかけるほど他者との関係性というものは構築されていく。景も最初からこの完璧な箱庭を作り上げたのではなく、年月をかけて少しずつ彼らとの物語を作り、思い出を共有し、構築していったのだ。しかし、宮嶺望にはそれがない。彼をより自分の管理下に置くために、彼女は宮嶺に積極的に関わっていったのだと考えられる。
そして彼女は自身に対して恋心を抱く、根津原という男子生徒を唆していじめを行わせる。自分に好意を持つ人間を操ることは、同学年の生徒を手中に収めている彼女にとっては造作もなかっただろう。
消しゴムを盗まれる些細なものから始まり、根津原のいじめは日を追う毎に身体的な痛みを伴うものへと変わり、加速していく。
この時、宮嶺に対して行われていたいじめは後に彼女が作り上げた自殺教唆ゲーム、「ブルーモルフォ」に似ている。「ブルーモルフォ」で行われていたのは、慣れてきた頃に朝の四時に行動を取るように指示して、睡眠時間を削らせ思考力を奪い、ゲームに従順にさせるということである。いじめにより憔悴した宮嶺は当然学校には行きたくないと考えるだろう。
しかし、「休むともっと酷い目に遭わせる」と根津原に脅される。とあれば、痛めつけられると分かっていても、それでも絶対に登校しなくてはならない。度重なる心と体への暴行によって麻痺した宮嶺の頭には、ただ黙ってこのいじめを受け入れるしか選択肢はなかった。
しかし、このいじめによって転勤族であった宮峯は皮肉にも、今までになく学校を「逃れられない自分の居場所」と認識し、結びつきを強くする。そしてその中で、唯一自分に優しく接してくれる景は完全に「ヒーロー」となっていった。
景は作中でこの「ブルーモルフォ」の仕組みは根津原の行ったいじめと、それに対する宮嶺の反応から着想を得たと語っているが、私は順番が逆だと考えている。
彼女は無意識的に根津原による宮嶺に対するいじめをコントロールし、前述のような状況に追い込んだ。それは全て幼い景の無垢な思想・直感のままに行われたことである。
「ブルーモルフォ」は無垢で幼い景が行った行為を、成長した彼女が純然たる殺意を持って完成させたシステムだ。景は自分の意志を持たず、流されて生きる人間を間引くことに異常な執着心を抱いている。それは共感性を欠いた彼女が、人間を管理し完璧な箱庭を作り上げる中で行き着いた結論である。
そして、意志を持たない人間に欲しい言葉と役割を与えれば意のままに操ることができるということも学んだ。彼女を形作るその思想の中にいつも存在するのは、「宮嶺望」である。彼は彼女の被験体であり、箱庭の中の駒だった。
いじめによって宮嶺と景の間に出来た、完全な結びつき。ついに宮嶺は、寄河景の管理する、箱庭の住人となったのである。景の立てた計画のなかでは、彼の『物語』はこれで終わる筈だっただろう。
4.所有欲:病質的な慕情
ここまで述べた内容で、景はその他クラスメイトの有象無象と同じように宮嶺を支配したいと考えているとしてきたが、その彼女の思考にも転換期があったと推察される。それは、根津原が作成していた『蝶図鑑』の存在と、いじめによって宮嶺が腕を骨折したことだ。
『蝶図鑑』は根津原が宮嶺を痛めつけた後に彼の手の写真を撮り、掲載していたサイトの名前である。ネット上の写真は一生残るから、彼は最初面白半分、嫌がらせ半分でその行為を行っていただろう。
しかし、ある日行き過ぎたいじめの果てに宮嶺は階段から転落する。そして見るも無惨に折れた彼の腕を前に根津原はいつも通り冷静に撮影し、ネットに上げるのであった。この時の根津原の様子を作中ではいじめっ子ととしてでは無く、明確に怪物として不気味に描かれている。腕の骨折を負わせるなんて、普通の小学6年生であればパニックになってもいいところだが、気味の悪いことに根津原はひどく冷静な様子で宮嶺を見下ろすのである。それはまるで、共感性も無く他者の痛みも想像できない、無感情に人を傷つけるサイコパスに他ならない。
この根津原の行為は、言うなれば宮嶺望という存在を自身が直接支配しようとした、写真を撮り図鑑として標本し『所有』しようとした、ということに他ならない。寄河景が支配する箱庭の中で、たかが駒の一人に過ぎない存在が意志を持ち、自らに近い存在として同じ駒の一人を所有しようとし始めたのである。それは絶対的な管理者である景にとって、到底許されないものだった。
そこで初めて景は人間に対して、愛着のようなものを抱いたのである。愛着と一口に言っても、それも歪なものには違いないが。彼女が人間に対して初めて抱く、所有欲という愛着。それは彼の涙に、自分に対する「流されない想い」を感じたからだろう。
宮嶺は折られた腕を景に見られた時、痛さに泣いたのではない。惨めさに泣いたのではない。自身の思い人であり、ヒーローであろうとした寄河景、その人に見られた申し訳無さに泣いたのである。景のヒーローになるという約束を守ることのできない、自分を嘆いたのだ。彼は彼女が与えた「景のヒーロー」という肩書きを、まるで自分が選んだものかのように心底信じきっていた。
そこに彼女は、宮嶺の誠実さをみた。自分に対する想いの深さを知った。宮嶺は本当に「最後まで」、怪物である自分の側にいてくれる人間かもしれない、と希望を見出したのだ。自らの所有物である宮嶺を傷つけるのも守るのも、自分だけに許されている、という景の所有欲は、普通の人間にとっての恋愛感情とイコールである。
宮嶺を傷つける人間、自分と宮嶺の結びつきを壊しかねない秘密を知る人間は彼女にとって、「邪魔な存在」「排除すべき人間」である。だからして宮嶺をいじめていた根津原、そして景に代わって彼を殺した女友達二人は殺された。全ては二人の、二人だけの完璧な箱庭のために。
5.終わりに
「恋に至る病」とは、あらゆる人の欲しい言葉、して欲しいことが分かり、誰にとっても特別な存在として恋焦がれる、景そのものを指している。そこには何の思いやりも感情さえも無いというのに、欲しい言葉をくれる彼女からの空虚な慕情に相手は溺れ、病んでいく。彼女の名字でもある、「ヨスガ」。心のよりどころとすること、頼りとすること。まさに彼女はみんなの「ヨスガ」であったという訳だ。それが、寄河景という病だ。
では、病である寄河景、自身にとっての恋とは何だったのだろう。彼女にとって宮峯は対外的な「相手がそう見たい」自分、つまり虚な抜け殻として愛した存在ではない。欲望のままに人を操り、傷つけ、殺す。殺させる。そんな生臭い内臓を、わざわざ自分でかっ開いてまで彼には見せようとした。それは単に、彼の全てを手に入れることを望んだからである。そして、彼にも自分の全てを受け止めて欲しかったからである。
景の生臭い内臓、つまり彼女が生み出した自殺教唆ゲーム、「ブルーモルフォ」には二つの側面があった。一つは「意志を持ち生きる者だけが生き残るべき」という思考の元で世界の淘汰を行うという、サイコパスとしての景の欲望を満たすもの。もう一つは、景と宮嶺の絆……ないし、宮嶺に対するサイコパスとしての「所有欲」という恋愛感情を象徴するものである。
「ブルーモルフォ」は宮嶺を景に繋ぎ止めるものだ。「ブルーモルフォ」は、宮嶺から始まった。彼のために、初めて景が人に行わせた殺人から始まった。それは彼女の罪であり、彼女なりの愛情だった。宮嶺に罪の片棒を担がせて一人死んでいく彼女は、肉体を失ってなお、彼の魂を離さない。「景のヒーローでいる」という、宮嶺のたった一つの願いは、最後の最後に成就された。寄河景は死を持って、箱庭の中に迷い込んだ青く瞬く綺麗な蝶を、永遠にその血塗られた手の中に閉じ込めたのである。これが、彼女の完璧で、病的な恋の成就だ。
所有したい・されたいという欲望による慕情というと、小川洋子著の、「薬指の標本」という本を思い出します。さっくりとした短編の中にも、退廃的な静寂の中に狂った慕情が描き出されていて素敵です。ぜひ、ご興味ある人は読んでみてください。
長々と冗長な文を読んでくださり、ありがとうございました。
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