【終戦記念日】怒りの灯火
「おばあちゃんはね、玉音放送は聴けなかったんだよ」
8月14日の夜は、祖母がそう話していたのを思い出す。
79年前の今日、太平洋戦争は終戦を迎えた。
私の祖母はまさに終戦の日1945年8月15日の未明に熊谷大空襲を経験している。
終戦日を少し前にした8月上旬、埼玉県熊谷には米軍のビラが撒かれた。
「花の熊谷忘れはせぬが、お茶の静岡先にやる」
「熊谷良いとこ花の街、七月八月灰の街」
そして、終戦となる日の未明、祖母の住んでいた街は赤く燃え上がった。
深夜0時ごろ空襲警報が発令され、
照明弾で暗かった夜は昼のように明るくなり、
夥しい数の焼夷弾が熊谷の街に降り注いだ。
熊谷の街には星川という川が流れる。
炎から逃れようとその星川に飛び込んだ人もいたそうだが、川の水温は高く両岸から迫った火炎に包まれ、
数えきれないほどの人が命を落とした。
熊谷より遠くの街に住んでいた親戚は、
その日は夜中なのに明るくなっている街が見えたと話していた。
祖母はよく、「人は人生に一度は地獄を見る」と言っていた。
おそらくこれが祖母の地獄だったんだろう。
夜が明け、祖母が家族と片づけをしていると、
昼ごろに隣町から「戦争が終わったらしい」という話が流れてきた。
米軍がこんな空襲をしたのに、戦争が終わるわけないじゃないか、祖母は最初そう疑ったという。
「ラジオで天皇がそう話していた」
そのラジオ放送があったと複数人が話しており、戦が終わったとようやく理解できたそうだ。
それと同時に、祖母は強い憤りを感じたそうだ。
この戦は終わると分かっていただろう。
何のための空襲だったんだ。
何故あと一日早く終わらせなかったのだ、助かる命があった。
祖母は好きだった本を便所の塵紙にされ、
好きだった勉学も取り上げられ「学徒動員」で落下傘を作る工場にまわされ、慣れ親しんだ風景を炎に奪われた。
それでも聖戦と思っていた。
そして、玉音放送を祖母自身の耳で聴くことなく呆気ない終わりを迎えたのだ。
「この戦争に意味なんてなかったんだ」と祖母は言っていた。
祖母は87歳で亡くなるときまで、この怒りを持っていただろう。むしろその怒りが彼女の生きる原動力だったかもしれない。
その怒りの灯火は、まだ消えていない。
毎年、私がこの日に思い出すのだから。