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タイ語と日本語にみるジェンダーと言葉使い:中性キャラは丁寧に話せない?


タイ語の人称代名詞とジェンダー

 自分のことをなんと呼ぶか問題。
日本語では「わたし」をデフォルトで使っています。ここの記事の中でも基本は「わたし」で書いていますが、もっとかしこまって書く際には「私(わたくし)」としたり、論文では「筆者」とすることが多いです。
 私的な場面での口語では「ぼく」と言う場面もあります。

 タイ語の場合にどうするべきか。相手の年齢や立場、自分との関係や距離感で判断する必要があり、いつも苦労しているわけですが、一時期「チャン(ฉัน)」に落ち着ちついていたのにはもう一つ理由があります。
 「ポム(ผม)」は男性が使い、「ディチャン(ดิฉัน)」は女性が使う人称代名詞とされ、ジェンダーによる使い分けがはっきりしていたのに対し、「チャン(ฉัน)」は男女ともに対応できるユニセックスな使い方ができる点が気に入っていたのです。

 結局、「チャン」ではフォーマルさが足りない場面もあるという指摘を受け、「ディチャン」も併用するようにしたわけですが、その後「ラオ(เรา)」もカジュアルな場面でのレパートリーに加えるようになりました。「ラオ」は男女共に使え、一人称単数だけでなく一人称複数でも使われるというさらに汎用性の高い代名詞です。ほかにも、相手からの呼び名を使ったり、単純に主語を省略することもよくあります。

日本語における「男言葉」「女言葉」の根深さ


 あらためて考えてみると、言葉使いはジェンダーの関係においても、興味深いものです。
日本語では敬語を使う時が一番、性別に関してはフラットかもしれません。敬称も「◯◯さん」は、男女関係なく(また未婚か既婚かも関係なく)使われます。
 
 口語表現には、いわゆる「男言葉」「女言葉」があります。小説や漫画、映像作品の吹き替え等、フィクションの世界においては、キャラクターを明確化するのに一役買うこともあり使い分けが顕著ですが、現実の話し言葉ではジェンダーレスに口にされることも珍しくはありません。
 しかしだからといって、「男言葉」「女言葉」が形骸化しているというわけではなく、これはこれで根深いものがあります。

日本語の女性らしさ、男性らしさと命令形


「やめろ」「離せ」「さわるな」「逃げろ」「行くな」「ひるむな」などなど、
自身や誰かを守ろうとする時、または危機に際した時に発せられるであろう言葉は、どれも男らしさを感じさせるものです。

 たとえば、痴漢や引ったくりに遭遇した女性が発する、”女性らしい”セリフのイメージは?

「やめてください」「離してください」 ?
  こちらが丁寧に依頼をする立場に置かれたようで、なんだか屈辱的。相手が強者、自身が弱者である関係を受け入れてしまっていることも怖い。

「やめて」「離して」 ?
  語調が弱い。不本意ながら親しげ。

「やめなさい」「離しなさい」 ?
  教師や保護者が目下の者を諭す雰囲気で、威嚇はできなそう。

「やめろ」「離せ」 !
  この語調が一番適切に感じるけれど、男性が発するイメージがあり、”女性らしさ”はない。

 上記はあくまで専門外の筆者による主観的イメージです。言語学上のしっかりとした分類ではありません。しかしこのようなざっくりとした感覚的な理解でもなんとなくわかること、それは日本語において「女性らしいとされる言葉使いでは、強い命令と威嚇はできない」ということ。
 相手をひるませるのに十分な強い言葉を使う必要がある場面は、話者の性別に関係なくやってきます。弱者とみなされ不当な扱いを受けた時こそ、強い語調で拒絶を表明するべきです。しかし実際は、話者の性別によって無意識に選ぶ表現は異なるといえます。
 「その手をどけろ」「触るな」「いい加減にしろよ」等、個人差はありますが男性であれば違和感なく使える言葉も、女性が口にするには多くの場合躊躇があります。周囲に与える印象を考えてしまい、咄嗟に発する際の難易度は男性よりも高くなるのではないでしょうか。

 また、罵倒や乱暴な言葉も、いわゆる「女言葉」ではなく「男言葉」の領分になることが多い。

 日本語の場合、最もジェンダーレスに使える言葉使いを敬語だとすると、その敬語というものは、粗野だったり、親密な雰囲気には合わないものなので、敬語から離れようとすればするほど、男女どちらかに寄ってしまう、ということがもしかしたらあるのかもしれません。

(ちなみに、ある対話型AIに自身のジェンダーについて質問してみたのですが、敬語モードの時は「は言語モデルなので、人間のように性別やジェンダーを持つことはありません」との回答で、カジュアルモードの時は「自身はAIだから、ジェンダーの概念を持ってないんだ」との答えでした。丁寧な時の一人称は「私」、フレンドリーな時の一人称は「僕」という使い分け。)

生成AIが作成した図

丁寧なタイ語を話すにはジェンダー選択が必須?


 敬語がジェンダーレスに近くなる日本語とは反対に、タイ語では丁寧に話そうとする時、話者の性別を曖昧にしておくことはできません。男女共に使える一人称、「チャン」「ラオ」はフォーマルな場面では不適切だとされていますし、「です・ます」にあたる語尾表現も男性が使うものと女性が使うもので分かれています。 
 女性は「カ(kha/ค่ะ)」、男性は「クラップ(khrap/ครับ)」をそれぞれ語尾につけると丁寧な言葉使いになります。
また、「カ(kha/ค่ะ)」「クラップ(khrap/ครับ)」は日本語の「はい」にあたる肯定の間投詞にも使われます。
 つまり、文末表現を「です・ます」調にあたる敬体で表現する時や、「はい」にあたる丁寧且つ明確な返事をするためには、「女言葉」か「男言葉」を選択する必要が生じるわけです。

 タイ語の語尾表現はほかにもいくつかあり、そのうちのひとつに男女共に使われる語尾表現に「ハ(ha/ฮะ)」があります。
中性的な言葉使いの選択肢になりますが、性別が曖昧になると同時に「カ(kha/ค่ะ)」「クラップ(khrap/ครับ)」と比べ丁寧さが一段階下がる印象です。口語における語尾の発音を崩した話し方で、感覚的には日本語で言うところの、「です」が略されて「~っす」と聞こえるというものに近い。なので、先生など目上の人に対して使うのはやや不適切で、親しい先輩や、立場は対等だけどまだ打ち解けていない同僚などに対して使うのにしっくりくるような表現です。

 タイ語の場合には、丁寧に話すためには、語尾表現は男女のどちらかを定める必要があり、ジェンダーを曖昧にした言葉使いは、選択肢はあるけれど正統性に欠く、という印象があります。

敬語と英語翻訳

 日本語の敬語には、尊敬語、謙譲語、丁重語、丁寧語があるとされますが、多くの外国語にも、それぞれ日本語とは異なる敬語が存在します。王族に対してのみ使われる語彙や、僧侶にのみが使う語彙があるなど、タイ語も日本語とは異なる敬語の体系をもっているのですが、目上の相手に対して話す際、語尾を丁寧にしたい感覚は日本人のそれとよく似ているように感じます。
 タイの大学で、ある英文学科の授業に参加していた時のこと。英文学科の授業では、担当の教授はタイ人ですが、英語のテキストを使い講義もすべて英語という授業がいくつかありました。学生もクラス内では、タイ語を使わず英語で話すルールです。その中で印象的だったのは、質問など、学生が教授に対して発言をする際、英語で話しているのに文章の最後にはタイ語の「カ(kha/ค่ะ)」もしくは「クラップ(khrap/ครับ)」を付けて話す学生が一定数いたことです。流暢な英語のなかに控えめに添えられるタイ語の響きは、普段クラスの外では必ず語尾表現を付けて話すべき相手に対し、外国語であっても敬意を払わないと落ち着かないという気持ちの現れだったのではないかと思います。
 また、タイ人同士の会話に限らず、Sir/Madamを多用しがちなのも、Thai Englishの特徴のひとつ。これもおそらくは英語にない語尾の表現を補いたくなって、思わず付けてしまうのではないかと思います。この場合、話者の性別ではなく、相手の性別によって言葉の選択が変わることがタイ語の「カ(kha/ค่ะ)」「クラップ(khrap/ครับ)」とは異なります。もちろん敬意を示すつもりで使うのですが、英語ネイティブの特に女性の中にはmadamやma’amと呼ばれることを嫌う人もいるので、タイ語の文化を知らない人との間では摩擦を生むこともあります。
 ほかにも、フリーペーパーに掲載された記事のなかで、タイ語でのインタビュー記事を英訳したものに、タイ語の敬称や人称代名詞を「You」や「He」に訳さず、そのままタイ語のローマ字表記で英文のなかに組み込んでいるものを見たこともあります。インタビュアーとインタビューイの距離感がよく現れていました。

 こういった「母語の敬語のニュアンスをなんとか外国語でも訳出したい」という感覚。日本語話者の英語学習者でも共感できるものではないでしょうか。
 たとえば学校の英語の授業で、ネイティブスピーカーの先生(ALT:Assistant Language Teacher)がファーストネームで自己紹介をしたとしても、生徒から話しかける際には、敬称抜きには抵抗があり、Mr. Ms. もしくはちょっと強引でもSenseiをつけて話したくなってしまう感覚、ありませんでしたか? わたし自身はありました。(「年上で初対面に対して呼び捨てなんて勘弁してください」と思ってました。)
 英語圏、特に欧米の文化圏では、英語の丁寧さと親しみは時に矛盾しないものであり、むしろ過度に相手との距離を感じさせる表現はかえって失礼になる場面もありえます。しかし英語を習い始めたばかりの頃は、言語による文化的違いまではまだ分かりません。英語の婉曲的表現などをまだ知らず、単純な文法しか使えなかったとき、出てくる英語の表現は、日本語で考えている文章から敬語を省いてしまっているように感じていました。英語のつたなさが露見することよりも、敬語が使えないことへの抵抗が、英語で発言することへの躊躇につながっていたように思います。

個人的な葛藤


 その点、タイ語は人称代名詞や語尾を覚えれば、初学者でも尊敬や丁寧さを表現することができます。そのことが、習いはじめの頃の「通じないかもしれないけど、まず喋ってみる」ことのハードルを下げてくれていたように思います。
 しかし、日本的感覚に近い丁寧さを表すことができる一方で、ジェンダー感覚は日本語のそれとは変わってしまうことが、わたしにとってタイ語を話す際の違和感になっていました。
 留学初期のタイ語学習中の頃は、大学教授や大学の先輩、大学事務員など、目上、年上の人と接する機会が多く、「失礼のないように」と強く意識していました。そのため、所作や言葉使いにも気を使っていたのですが、結果的に日本語を話している時以上に「女言葉」を多く使わざるを得なかったのです。
 丁寧で礼儀正しく振る舞いたい一方、必ずしも女性らしさは自分らしさとは異なるものでありたいとわたしはかんがえています。そのため、タイ語で丁寧に話そうとする時、自身を偽わる、とは言わないけれども、どこか本来とは別の自分を演じているようで、丁寧であろうとすること自体が偽善ではないかとか、後ろめたさを感じて悩んでしまうことがあったのです。

 その後、他の言語や文化を学ぶなかで少しずつ、言語ごとに異なるペルソナを使い分けることはごく自然なことだととらえるようになってきました。ペルソナを使い分けることにより、言語によって性質や性格が異なるように感じるのはその言語の文化的な背景や、言語を使う場面が自分に影響を与えているから。後ろめたさを持つことなく、異なる言語や文化を学ぶことで複数のペルソナを楽しめるようになりたいと考え、そのなかで自身のパーソナリティにしっくりくる話し方を模索するようになりました。

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