蛾
それが世界の果てだと思っていたから、あの夜の痛みのことを、僕は未だに忘れられずにいる。世界がひっくり返った日。信じられなくて、何度も太腿のあたりをつねった。痛かった。岡田は僕を好きだと言って、輪郭に触れた。彼は宇宙のなによりも僕を嫌っていたというのに。
自販機の光が岡田の肌を照らす。サイダーとコーヒーで迷っているらしく、彼の目は上下にゆらゆらと揺れていた。僕は九十円の水を買った。舌が濁っていたから、味のついていないものを飲みたかった。
岡田の目はまっくらだった。前からそうだった気もするし、違っていたような気もする。会話するとき、目を合わせられない僕には分からないことだった。
自販機に張り付いている蛾を避けて、岡田はホットコーヒーを買った。缶が落ちてくる音のあと、彼は
「檜山とは仲直りした?」
と切り出した。僕は先日の檜山の表情を思い出して、首を振った。檜山は同じサークルの友人で、少し前に口論があってから、関係が悪くなっていた。口論といっても、それは落ち着いた静かな憤りの交換であって、数日前の話し合いのときもそうだった。僕は檜山の嫌なところを、檜山は僕の人でなしなところを共有した。
仲直りとは言えないのだろう。ちぎれてしまった紐をセロハンテープで繋ぎ直そうとしたが、元通りにはならなかった。僕はそういう比喩で説明した。
「ふうん」
どっちでもいい、というような返事だった。沈黙を誤魔化すように水を飲んだ。岡田は遠くを見ている。
行くあてはなく、僕たちは夜の道だと思われるものを、進んだり戻ったりしていた。吸い込まれていくような足取りで公園にも入った。岡田は一直線にブランコへ向かった。月あかりだけが頼りの夜の公園は、遊具の色も花の名前も分からない。カーブの効いたすべり台に惹かれたが、岡田には言い出せなかった。
ブランコは想像よりも低く、思わず声を上げた。
「こんなに低かったっけ」
答えることも笑うこともせず、岡田は缶コーヒーのプルタブに指を引っ掛けた。
僕は続きを話した。檜山との間にあったこと、今まで隠していた理由、檜山と腹を割って話したこと、その末路。岡田は心地の良いリズムで相槌を打ち続けた。僕を励ますような声色で、ときどき感想を述べた。檜山の悪口を言うこともあった。
話しているあいだ、僕の頭の隅にはずっと蛾が飛んでいた。自販機に群がっていた蛾だ。夜行性の昆虫には、光に向かう走行性がある。僕は岡田の蛾なのだろう。彼はまぶしいし、近くでそれを感じていたいと思う。早くここから飛び立たなければならない、という罪悪感だってある。もちろん岡田は人間で、僕はそれと同じ形の生き物であるはずだが、岡田は僕を見下している、と感じることもある。僕が蛾なら腑に落ちる。
自分の意識の統制外のところまで話題が広がってしまった気がして、口を噤む。しかし、もう遅かった。話さなくてもいいことまで話してしまった。余計なことばかり考えていたから。
「そういえば、檜山から聞いたんだけど」
岡田の声は冷たくなっていた。僕は膝の裏に汗をかいている。
「俺がお前のこと好きって言ったって、みんなに言って回ってるだろ」
汗の粒が垂れ落ちて、僕は咄嗟に否定した。しかし僕は確かに言って回っていた、岡田が僕を好きだと確かに言ったから。僕を嫌っていた岡田が、僕を手繰り寄せたから。僕は岡田が好きだったから。まぼろしになってしまうことが怖かったから。
阿部野橋行きの電車が通る。線路は公園の近くにあり、ごおごおと風を切る音が聞こえてくる。それがおさまってから、僕は口を開いた。
「たましいが……くっついたと思ったから。あの夜に、岡田が僕に触れたときに、僕は離れていたたましいが一つになったと思った。嬉しかったし、おそろしかったし、ほっとした。この先何があったって僕のたましいは温かいままなんだと、心が軽くなった」
忘れたかもしれないけど、と付け足すと、全部覚えている、と彼は答えた。
「だけど岡田は誰にも言わないのだろうなと思った。誰にも言わなかったら、それは無かったことと同じだから。あの夜、僕たちは並んで眠った。確かにたましいを溶かしあって眠ったのに」
そこまで言ってから、岡田の横顔を見た。元からそういう表情の銅像のように、かたく、僕以外のすべてを眺めていた。
「岡田は無かったことにするんだろうなと思った。だから僕は言った」
「この話はもう忘れよう」
僕は了承した。それから、そうするのが正しいと思って立ち上がった。しかし岡田は座ったままで、再びブランコを漕ぎはじめた。たましいが離れていくような不安が心臓に絡みついて離れない。僕は立ち漕ぎをはじめた。風に頬を撫でられる。人にはできるだけ優しくありたいと、ずっと思っていた。
それから、僕たちは夏休みの話をした。岡田の試験が終わったら、田舎へ旅行することになった。てのひらほどの大きさの蜘蛛が出るが、星空はこの辺りと比べ物にならないほど綺麗だということ、川を流れる水の音が、本当にさあさあと聞こえることを話した。岡田の表情は柔らかく、声も明るかった。僕は少しずつブランコの揺れを小さくしていった。
再び檜山の話へと戻った。先ほどまで、どちらかといえば僕を肯定していた岡田が、いきなり中学校の先生のような真面目さを纏った。
「俺も檜山も、ずっとあなたの話を聞き続けたよ。明るいものから暗いものまで、ほとんど暗かったけど、一回生の頃からずっと。思わせぶりだったんだよ。異性間に友情なんてないんだから」
相槌を打つだけにして、他は何も言わなかった。黒いスカートが揺れるたび、夜と自分との境界が分かる。僕は夜ではなく、人間なのだと。
「あなたは女なんだから」
殴られたような痛みのあと、ただの事実を言われていることに気がついて、思わず冷静になる。暴れ回って田んぼに落ちてしまいたい、だけどそうしたって男にはなれない。
岡田の言葉に頷いてから、僕はブランコを降りた。今度は岡田も立ち上がり、公園の出口へ向かって歩き出す。何本も草を踏んだ。岡田の少し後ろを歩いていて、僕はやはり蛾なのだと思う。
空き缶をゴミ箱に捨ててから、岡田はあの夜について話しはじめた。僕を好きだと言ったことや僕の輪郭に触れたことを、そういう気分だった、の一言で片付けた。寂しかったのかもしれない、実験的な気持ちで、とも言った。小説読解の主人公に、岡田は適さない。僕はあの夜の岡田の心情の選択問題で、ウの「僕を好きになったから」を選んだ。正解はア、イ、エの「そういう気分」、「寂しかったから」、「実験のつもり」だったのだ。
「でも、まさか、俺がお前を本当に、恋愛的な意味で好きだからとは思ってなかったでしょ」
岡田は馬鹿みたいな表情で、馬鹿みたいなことを言った。僕はけたけたと笑いながら
「恋愛的な意味で、好かれたのかと思ってた」
と答えた。
岡田はあの夜を人生の汚点だと言って、さすがに言い直してから、どうしようもなくなったかのように笑った。光が笑ったから、蛾もそれを真似た。
雨が花弁に落ちるように、僕たちは何度もぶつかり合った。今度こそ紐はちぎれてしまうのだと何度も怯え、何度も紐を結んだ。とうとう紐の端まで来てしまった、と思う口論があった。そのときも紐は結び直せたが、今の結び目は端よりも少し手前にあるだけだと感じた。
それが世界の果てだと思っていたから、あの夜の痛みのことを、僕は未だに忘れられずにいる。世界がひっくり返った日。信じられなくて、何度も太腿のあたりをつねった。痛かった。岡田は僕を好きだと言って、輪郭に触れた。彼は宇宙のなによりも僕を嫌っていたというのに、彼が宇宙のなによりも僕を好きになったのだと、間違えてしまった。生きていてよかった、と思えた夜だった。
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2023.5.16の作品でした。
noteでは読みやすいように余白を多めに使っています。