新宿-須賀町、左門町
信濃町を通る外苑東通りから須賀町に入り四ツ谷駅方面に抜ける道は、寺院通りの体を成しています。
須賀町と境を接する怪談話『東海道四谷怪談』に登場する「お岩」が居住していた地として知られる左門町も立ち寄りながら、
町域南部の戒行寺坂を下りた付近まで散策しました。
上記文書は、次の説明の引用元を参考に作成:
ウィキペディア(Wikipedia)
須賀町 (新宿区) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E8%B3%80%E7%94%BA_(%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8C%BA)
左門町 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E9%96%80%E7%94%BA
左門町/日蓮宗 陽運寺
「東海道四谷怪談」で有名なお岩様をお祀りしていることから於岩稲荷(おいわいなり)と呼ばれるそうですが、
その寺院の入り口には、於岩稲荷と書かれた提灯が下がっており、
そして、その横にある掲示板に目を向けると
『(背中を押してくれる個人の言葉を定期的に紹介しています)一瞬で不幸になる方法 それは自分を誰かと比べること。』という言葉や
お守りや御朱印の紹介が掲示されていました。
また、几帳面に整えられた寺院の見た目からも来客を期待して綺麗に整えられた寺院であり、人気のあるスポットであることと察しました。
小ぎれいであり、また、時間も5時近かったこともあり、その門より先に進んでよいか迷っていると、
20代と思われる女性が入口で慎重にスマフォで写真を撮影し、一礼をして立ち去っていきました。
その姿を見ると、ますます、その門を潜るのに自分はふさわしい人間であるかどうかという迷いが深まりましたが、
後悔するよりも、と思い切って足を踏み入れてみることにしました。
神仏が混在する姿は、各所で見られるように思いますので、
日蓮宗の寺院に於岩稲荷が祀られていることは特に不思議なことではないのでしょうが、
そうは言っても雰囲気が寺院とは感じられなかったこともあり、後日、情報を調べてみました。
陽運寺の説明ではないですが、最上稲荷という日蓮宗のお寺が岡山県岡山市にあるそうで、
その本尊が、最上位経王大菩薩(稲荷大明神)であるとのこと。
神仏習合の結果、仏教の女神である荼枳尼天と稲荷伸が一体化し、仏教寺院で祀られることもあり、
最上稲荷はその一例でしょうか。
最上さまは、白い狐にまたがり、左手に稲穂、右手には鎌を持ち、五穀豊穣、商売繁盛、厄除けなどたくさんの福徳を備えるとともに、
法華経の精神をこころに、慈悲をもって私たちの苦しみを和らげ、安らぎを与えて下さるとのことです。
上記文書は、次の説明の引用元を参考に作成:
ウィキペディア(Wikipedia)最上稲荷/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%A8%B2%E8%8D%B7
コトバンク 荼枳尼天/https://kotobank.jp/word/%E8%8D%BC%E6%9E%B3%E5%B0%BC%E5%A4%A9-92883
ウィキペディア(Wikipedia)稲荷神/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E
日蓮宗尾張伝道センター 最上稲荷(最上さま)について/http://owaridendou.com/qa/003.html
また、人の都合により形を変える民間信仰との習合の過程を経て産まれた信仰について、
次のような説明で批判的に述べている内容もありました。
『仏教的形態の稲荷信仰は、寺院が守護神として稲荷神を取り入れたことからはじまっていますが、
現在、全国に散在している姿は、もともとの仏教寺院の本尊と、その守護神である稲荷神が、
完全に混乱して祀られており、主従が顛倒しています。』
日蓮正宗 妙通寺 「稲荷信仰」は理性を失わさせ、挙げ句には精神を破綻させます/https://www.myotsuuji.info/%E7%A8%B2%E8%8D%B7-%E3%81%84%E3%81%AA%E3%82%8A-%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%AF%E6%80%96%E3%81%84/
ところで、四谷怪談のお岩と豊作を象徴するであろう稲荷様がなぜ結びついたのかが不明でしたが、
道を挟んで陽運寺の前に於岩稲荷田宮神社があること、つまりお岩稲荷が複数できた要因の説明として、
『お岩稲荷が複数もできた要因としては単純に儲かるためである。
歌舞伎俳優は元より、お岩の浮気に対して見せた怨念から、男の浮気封じに効くとして花柳界からの信仰を集めたため、
賽銭の他に土産物などで地元経済が潤ったからである。』
ウィキペディア(Wikipedia)四谷怪談/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%B0%B7%E6%80%AA%E8%AB%87#%E3%81%8A%E5%B2%A9%E7%A8%B2%E8%8D%B7
とウィキペディアに書かれていましたが、これは、その理由を考える上でも、とても分かり易い説明と思いました。
つまり、前述の信仰の正しさからの外れていくことへの非難はもっともなことだと思いましたが、
その場その場を解決してくれる状態を現実とすることが、一般的に人が求めることであり、
その目的を果たすために、人が適当にその意味の加減を調整しながら、それを利用し信仰することは、一概に悪いとは言えないように思いました。
また、多様なモノ・コト・ヒトとつなぎ合わせて利用することは、今に始まったことではないのでしょう。
それを示す言葉として、今は、イノベーションという商売気が強く漂う表現が良く利用されていると思います。
昔から人は変わらないが、それを定義する言葉は変化している場合もある、ということでしょうか。
ところで、ここまでに説明が長くなってしまいましたが、個人的にこの寺院訪問時に気になっていたことは、
『一瞬で不幸になる方法 それは自分を誰かと比べること』
という言葉です。
気になった理由は、
・人は他人の存在を認めて初めて自分の立ち位置を確認できる。
・そして、他の人やモノとそのような複数の関係を見出すことにより、この世界が、そして自分が存在することを信じられる。
という考えの中、世の中は成り立っていると個人的には理解しているが、
それには合わない考え方であると思ったからです。
つまり、人と比べることを排除した時点で、自分が定義できなくなってしまうので、
比較することは否定すべきことではなく、ただ受け入れることになると思っています。
ただし、言葉としては掲示されたことの言いたいことは分かる気もします。
言葉で表現し、創造される世界というのは所詮限られた大きさであるが、
自分の背中を押してくれるのは、その言葉ではなく、自分の創造(想像)した世界なんだと思いました。
須賀町/曹洞宗 永心寺
『無心 追えば逃げるぞ赤とんぼ 待てばとまるよ竿の先』
現実を受け入れ、生きていこうという助言でしょうか。
『自分を誰かと比べずに』生きていく、
ということは自分で主体的に世界を描き進んでいくことと理解しましたが、
こちらで言っていることは、ゆっくりと自分と周りを眺める余裕も必要ということでしょうか。
多様性/多態性を持つ言葉で何か一つの真実を作り出せるわけではないので、あまり言葉に囚われることは避けるべきだが、
色々な言葉により定義され、その言葉に溢れる今の世の中においては、
何か自分の決めた信仰を持ち、自信を持って先に進もうとすることが重要と思いました。
須賀町/宗福寺
四谷正宗の異名を持つ名刀工源清麿の墓とともに、刀剣学者内田疎天や、刀剣師水心子の墓があります。
現在でも11月14日(安政3年没)の清麿の命日と、9月27日の初世水心子の命日には、
この道の愛好家によって墓前祭がいとなまれているということです。
一般社団法人 新宿観光振興協会 宗福寺の説明を抜粋/https://www.kanko-shinjuku.jp/spot/history/article_406.html