連帯と勇気
『連帯と勇気の連鎖』
世界が、医療現場の皆さんが、民衆が、見知らぬ人同士が、手を取り合い、そして助け合いながら戦う。
コロナ危機を前に、我々自身が鼓舞され、勇気づけられ、困難に立ち向かう。
素晴らしい光景。
少しの勇気の足りない自分。そのような姿を見て、自分の至らなさに気づき、自分も前に進まなければ。
強く自分の意思を持つことの大切さを感じる。
一方、『連帯』の重要さ、素晴らしさ、をマスメディアや周りの人から当然のごとく唱えられると、抵抗感を感じる。
連帯というのは力である。
戦いの力。それは、時に、相手を否定し、自分たちを正当化しながら、自らの主張を通そうと戦うことでもある。
経済不況時、契約社員に対し、会社からボーナスが永続的にカットされることになると告げられた。
会社側との会議で、労働組合に属しない一人の自分が吐く言葉にどれだけの力があったであろうか?
キルギスのチューリップ革命のとき、集まった人々によりホワイトハウス(大統領府)が占拠される場に立ち会った。
見るからに組織化され、そしてそれに吸い寄せられた人々。その勢いを先へと向け突撃していく。
自らの望みや思いを達成して、満足と熱の籠った顔。
民衆という意味はよく分からないが、ホワイトハウスを囲む、突撃した数を大きく超える大多数。
一人ひとりが、ただ、不安そうな顔で、その光景を見ているようにみえた。
民主主義。
その制度は、多数派の意見を尊重する制度であり、その多数派を連帯させ、力を持たせる、という制度である面がある。
その膨大な力に対抗するための連帯もあるわけであり、連帯が悪いわけではないが、
その言葉自身が、絶対的に『正しい』とか『悪い』という意味を含んでいるわけではない。
人々の連帯、という言葉は、人々の先入観として、『素晴らしい概念』として取られることが多いような気がする。
但し、それは時に、ある力や組織が、現状を肯定し、その世界を守る場合にも用いられることもあると思うので、
マスメディアから発せられるその言葉には、安易に踊らされてはならない、と思う。