#58 死について考えよう(1)
人は誰もがいずれは死ぬ。
この事実を老若男女問わず知っているが、わかっている人は少ない。どんな聖人も悪人も、わたしを含む凡人も、死と向き合うことはおそろしいはずだ。それは、水面に映る自分に近づくと、覗き込めば覗き込むほど水面に顔が近くなり吞み込まれてしまいそうな衝動にかられるためだ。
そのため、漠然と死を意識し、いずれは死ぬが、まだ死なないだろうという曖昧な解を腰からぶら下げ、多くの人は生きている。
しかし、より良い人生を送るためには、いずれ訪れる死と向き合い理解することは不可欠だと、わたしは考えている。
そこでわたし達の死は何なのか、そして死を理解した先にある「生きる」とは何なのかに、今わかる範囲で挑みたい。
魂
まずはじめに、死と向き合うためには魂の存在について考えなくてはならない。
そこにはWbasic的解釈が存在する。
「二元論」と「一元論」である。
前者によれば、人間の身体と、何か別のもの、心との組み合わせだという。これに対して後者によれば、心は身体の機能にすぎないので身体と魂は一つであり魂は存在しないと主張する。
物理主義者によれば、魂は存在せず、身体があるだけだという。もちろんこれは、物理主義者が人に心があるのを否定してはいない。人が考え、意思の疎通を行い、記憶したりする精神活動ができるのが明白なためだ。
だが彼らは、わたし達に何か特別な非物質的な部分(魂)があるとは言ってはいない。
しかしどうだろう。わたしを含む多くの人は魂の存在を望んでいる。正確には、たとえ物理的に魂がないとしても、魂の存在を信じたいのだ。
魂は身体が切り離された後、親しい人のそばにいて守護者のようにその人を護る。または、黄泉の世界へと行き、天国や地獄に去っていく。このように考えれば死後のわたし達の役割や人生が続きステージが変わるだけのような気がする。
はたしてそのような世界は存在するのだろうか。
わたしは人を「思考する個」と「思考しない個」として分類した。これは、身体は一つだけれども、わたし達には自我があり、それを固有の存在としてわたし達は認識しているためだ。しかし、身体の崩壊が始まればいずれわたし達の自我も消失する。
そのため、わたしは「一元論」と「二元論」についての議論は加わらないことにする。正直、どちらでも構わないと思っている。死という現象を半ば納得できるのであれば、そちらに本質はあり、建前などどうでも良いのだ。
どこからが死か
わたしたちは、死を自覚できない。それは、死ぬという現象が人生においてたった一度しかないためだ。例えば、三日三晩死中を彷徨って生還した人がいたとする。しかし、その人は決して死んではいない。死の扉が開きそこに片足を入れてしまっただけで扉の向こうには行っていない。
では、死ぬということはどういうことだろうか。
人間の身体はさまざまな機能を実行している。食物を消化したり、肺を広げたり縮めることで酸素を取り入れたり、心臓を拍動させ血液を循環させたりと、24時間絶え間なく活動している。
この身体の活動が何らかの形で停止してしまうことを、死と捉えることができる。
しかし、いったん心停止した人間が蘇生行為により意識を取り戻した場合、その人は生き返ったことになる。この場合、この人は一度死んでいることになる。
わたしは、死は自覚できないと先ほど述べた。しかし、上記のケースの場合、一度死んだことになる。早速、矛盾が生じてしまった。
しかし、こう考えてみてはどうだろうか。
自我が一時的に停止し再起動した場合、身体の機能は停止しているが、自我も死んでいない。そのため蘇生行為により、身体機能が回復し、身体機能が正常になると意識を取り戻し目が覚める。
つまり、死んでいない。
では、別の例はどうだろう。
何かの事故に遭い、身体機能の一部が正常に機能しているが、自我が活動を永久にできない場合はどうだろうか。
この場合、点滴などにより生存に必要な栄養素を与え続ければ身体は活動をしている。しかし自我は活動することは二度とない。
一般的に脳死と呼ばれる現象だ。このケースの場合、わたしたちは死んでいることになる。この先二度と自我は活動することはない。つまり、話し合うこともできないし、自らの意思で腕を動かすこともできない。
そのため、臓器移植が必要な人はこの身体の一部を切り離し臓器移植に使用する。(本人の臓器提供の意思と家族の合意が必要ではあるが)
脳死は、死とみなされ臓器移植が可能になる。臓器移植によって多くの命が救われてきたことは望ましいが、身体が活動している状態を死と定義するのは幾分違和感を覚える。もし、仮に脳死と判断された人が何らかによって息を吹き返して自我が蘇ったのならば、殺人になってしまう。
自我の停止と消失の境は曖昧でわかりづらい。
極めて稀なケースではあるが注視する必要はある。6年も植物人間だった人が目を覚ましたという過去の事例もある。しかし多くの場合、自我が消失し自分の意思によって身体を動かすことができなければ、死とみなしてもよさそうだ。
自分の意思で身体を動かすことができなく自我も消失していることが死だとすると、わたしたちはひとつ思い当たる節がないだろうか。
そうだ、睡眠中の状態だ。
睡眠中は、自我が消失はしていないが停止している。夢をみなければ目覚めたときに、睡眠中の出来事など誰もわからないだろう。もし、誰かが睡眠中もわたしはわたしだと主張するなら、考えてみてほしい。
あなたが睡眠中に別の人格が現れ、あなたの身体を自由に使用し殺人を犯したとしよう。目覚めたあなたは間違いなく「わたしではない。他の誰かだ」と主張するはずだ。
確かにあなたの身体が殺人を行った。この事実はかわらない。物理的な現象にフィクションはないためだ。しかし、あなたの自我が活動していないときに、あなたの身体が行ったことをあなたのせいにすることは酷だ。
このように、わたしたちの生とは、わたしたちの自我が活動している間のことだとわかる。そのため、刑法39条は心神喪失時の行動には責任能力がないのだ。
刑法39条は、心神耗弱の場合は刑を軽くするとしているほか、これらの能力がまったくない「心神喪失」の場合は刑法上の責任能力がなく、刑罰を科さないと規定している。 精神病や薬物中毒などによる精神障害のため、善悪を判断したり、それに従って行動したりする能力が、普通の人より著しく劣っている状態。
つづく
参考文献「DEATH シェリー・ケーガン著」
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no.58 2021.3.19
死ぬとは動的から静的に状態が移ることを指す。さらに突き詰めていえば、動的状態から情報に変化し物理的肉体を失うことを指すのだ。わたし達は、いずれ肉体を失う。
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