#85 血とは生物学的生産物である
こちらは#84の続きです。
血は生物学的生産物
1955年、アメリカのカンザスシティーでは増加する血液需要に対応するために、金を払って血を集める方法をとる商業的血液銀行が設立された。
銀行の名前はミッドウエスト血液銀行および血漿センターという。
この血液銀行は決して評判のよい商売をしていなかった。建物はスラム街にあり「血に現金払い」という看板がかかっていた。
のちにこの血液銀行は法廷闘争になるのだが、連邦聴聞会の記録によれば、この銀行が血を買っていた客の多くは、ドヤ街のホームレスの人たちで、前科があったり、慢性アルコール中毒や麻薬中毒にかかっており、食べ物に困っている人であったり、麻薬を買う金欲しさに売血を行っていた。
批判的な人たちは、この銀行を貧しい人にたかる吸血鬼と主張した。
報道によれば、この銀行の運営は乱雑で非衛生的であった。証言者は「床一面に虫がはい回っていた」と述べている。血液を扱う施設で不衛生は致命的に思える。それどころかある医者の証言では、この銀行がビール缶で血液を運ぼうとしたことを覚えていると述べた。
この銀行はある夫婦によって所有、運営されていたが、夫は小学校しか出ておらず、まったく医学の経験がなく、以前は車のセールスをしていたという。
もう一人の経営者である妻は、登録ずみの看護師と述べていたが、カンザスシティーからもミズリー州からも、免許発行の事実はなかった。
そんな内情にもかかわらずミッドウェスト血液銀行は連邦管理官から免許の交付を受け、1958年にはもう一つのワールド血液銀行を設立した。
それを危惧してか地元の市民、医者、病院経営者などが共同して無償のボランティアから集めた血液を供給する非営利目的の地域血液銀行を設立しようと努力した。
そして1958年にようやくカンザスシティー・コミニティー血液銀行が営業を開始した。
カンザス地域のほとんどの病院、医者、病理学者たちはいっせいにこの銀行の血液を使うことに賛同した。
そのため数ヶ月後、カンザスシティー・コミニティー血液銀行は、この地域の血液供給の独占状態になった。
これを良く思わないミッドウェスト血液銀行・ワールド血液銀行は、1962年7月に法的措置に出た。
彼らはコミニティー血液銀行およびその従業員、カンザス地域のいくつかの病院、病院経営者、医者たちを相手どって、これらの被告人らは営利目的の銀行の、金で買われた血液を使用しないように共謀し、さらに他の者にもその血を使わせないように仕向けた疑いがあるとして、連邦取引委員会に提訴した。
訴状によれば、
「州間通商においての血液の売買、頒布を妨害、制約、制限するための合意、了解、連帯もしくは一連の計画された行動を起こし、以来それを続行してきた」
これは血液および人体部品の通商制限を告発したはじめての提訴だった。
1963年9月、連邦取引委員会調査官ウォルター・K・ベネットを前にして聴聞会がつぎつぎと開催された。
そして数ヶ月後、彼は被告コミニティー血液銀行およびその関係者は、告発どおり有罪である、と裁定した。
この結果に、医師は今後治療に使うための無償の血液を自由に選ぶことができなくなることを危惧した。
コミニティー血液銀行はただちに上告し、この訴訟は委員五人全員で構成される連邦取引委員会に決定が委ねられた。
アメリカ医学会や赤十字社などの外部賛同者たちは「血で商売をするのは倫理に反し道徳にもとる」と主張する声明文を発表した。医師たちもつぎつぎと「人血をはじめ人体の一部を売買することは間違っており買われた血液は決して使わない」と証言した。
聴聞会が進むにつれ、この論争は世間の耳目を集め、議会を動かすまでになっていた。
1966年9月、連邦取引委員会は裁定を下した。三対二で委員会は第一審の裁定を支持し、被告コミニティー血液銀行、病院、医者およびその関係者は、ミッドウエストならびにワールド血液銀行の血液売買を妨害するよう共謀した疑いで有罪とした。
連邦取引委員会法令第五条に照らして、すべての血(人)は『生産物』または『部品』と認められる」と述べ、
すべての血は「生物的生産物」である、とする事実上の結論には、これまでの審議経過で十分な根拠が認められる。結果として、この件においての血液を取得し、加工し、供給した営利目的の当該銀行は、商品を製造し販売する業務を行っていたと認められる。当委員会は、このような業務の運営を妨げる効果を期待した共謀を有罪とする司法権を明らかに有するものであり、これを執行する。
と続いた。
その後コミニティー血液銀行は、連邦取引委員会の裁定を第八巡回区控訴裁判所に上告した。1969年、巡回裁判所は劇的にも連邦取引委員会の裁定を覆した。
コミニティー血液銀行のような非営利的企業は、連邦取引委員会の規制を免れるとした。この判決によって、医学関係者は独占禁止法や商法にとらわれることなく、自由に非営利的な血液だけを使えるようになった。
裁判所は、血液が連邦取引委員会の規定にあるような物品ではないとする考え方に共感を示したが、この点に関しては特別な判断を下すことはなかった。
血を売るしかない人たち
この事件後も、数年間にわたって血液の取り扱いをめぐる紛争は終わらなかった。
ニカラグアの政治を半世紀にわたって支配したアナスタシオ・ソモザは、1973年にキューバからの亡命者の医者ペドロ・ラモスとともに、マナグアにプラズマフェレシスという名の血清センターを開設した。
このセンターは「貧困と飢えに苦しむ」人びとから血を買いあげ、さらに投獄されている政治犯たちに献血を強制した。このセンターはFDA(アメリカ食品医薬品局)の許可を受けて、収集した血清をアメリカや西ヨーロッパで売りさばいていた。
1973年から1977年にかけて、毎年30万人にのぼる「献血者」の血を集め、その三分の二を輸出していた。
報道によれば金めあての売血者から限度を超えた採血を行って何人もの死者を出しているという。
このセンターに長い間通っている売血者は、売血の動機を次のように語った。
つづく
参考文献「生命に部分はない A・キンブレル著」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
nanaさん画像を使用させていただきました。
毎週金曜日に1話ずつ記事を書き続けていきますのでよろしくお願いします。
no.85 2021.9.24