#57 人のカラダは機械仕掛けか(2)
*こちらは#56人のカラダは機械仕掛けか(1)のつづきです
キメラ
ギリシャ神話に登場する伝説の生き物で、ラテン語ではキマエラという。キマエラはライオンの頭と山羊の胴体、蛇の尻尾を持ち、口から火炎を吐く。
ES細胞を使って新たなマウスを作り出そうとした、マリオ・カペッキ教授とオリバー・スミシーズ教授は、ある特定のタンパク質を持たないマウスを作った。
その方法は、ES細胞を使用して、遺伝子上のあるタンパク質の設計図を破壊し、その細胞を他の胞胚に移植して成体のマウスに育てるのだ。
しかし、そこで生まれたマウスの細胞の大半は、もともと胞胚の細胞が専門化した細胞で成り立っている。
つまり、マウスの一部分のES細胞が専門化された臓器や皮膚は遺伝子上のタンパク質が破壊された設計図を有しているが、その他の組織は他の胞胚で育った普通のマウスのままだ。
そこで二人の教授は毛色の異なる二系統のマウスを使用した。ES細胞を褐色のマウスから作り、黒のマウスの受精卵に移植したのだ。
すると、身体の一部分が褐色マウス、残りの部分が黒マウスの二色のブチが生まれてきた。褐色の部分がES細胞由来、黒い部分が黒マウスの受精卵由来だ。
こうした二個以上の胚に由来する個体を『キメラ』と呼ぶ。
さらに二色のブチのキメラ・マウスから、毛の褐色部分の多いマウスを雄雌選び、この二匹をかけあわせた。
精子・卵子を作るそれぞれの組織がES細胞由来なら、生まれてくるマウスは全身褐色になる。この工程を幾多のカップルに行い、全身褐色のマウスを誕生させた。
こうして生まれたマウスは「ノックアウトマウス」と呼ばれ、遺伝子上タンパク質の設計図が壊れている。この功績が認められ2007年にノーベル医学生理学賞をマリオ・カペッキ教授とオリバー・スミシーズ教授は受賞した。
えびす丸1号
福岡伸一博士(分子生物学者)は、ES細胞を使い膵臓のメカニズムに挑戦した。
膵臓はお腹の中央、みぞおちの奥の胃の裏側あたりにある。沈黙の臓器ともいわれるこの臓器は、消化酵素を生産し、それをせっせと消化管へ分泌する。
消化酵素を使うことで、毎日食べる食物は効率よく消化され、吸収され栄養にできる。膵臓の細胞は消化酵素の生産と分泌のために専門家されている。
細胞の中には小さな球形の袋がたくさんあり、そのなかに消化酵素が充填されている。その姿はブドウの房のように見えるという。
一つ一つのブドウの実には、細胞内部を横切って移動し、細胞の表面に達すると皮の一部に穴が開き、その中身がはじけ出す。その中身は消化酵素でこれが細い管を伝って消化管へと運ばれる。
福島教授は消化酵素を包む皮に着目し、膵臓の精妙な働きの仕組みを解き明かそうとした。そして、皮の上に一番多く存在している超ミクロ部品、タンパク質分子を取り出すことに成功した。
それは、GP2と呼ばれるたんぱく質だった。
そして、GP2の役割と重要性を証明するために、ES細胞を使い、GP2の設計図を消去し、「ノックアウトマウス」を作ってみようと試みた。
はたしてGP2を持たないマウスはどのような不都合が起こるのだろうか。
GP2を持たないノックアウトマウスは五体満足に生まれた。そして、研究室ではこの赤ちゃんを「えびす丸1号」と命名し、固唾を飲んで観察を続けた。
えびす丸1号には、GP2の部品が欠落している。えびす丸1号に何か異常が認められれば「GP2が存在しないから」と考えられる。逆にいえば、「その異常を引き起こさせないようにするのがGP2の機能である」と結論できる。
結果からいえば、えびす丸1号には、何事もなく成長した。栄養失調にも糖尿病にもなっていない。血液を調べ、顕微鏡写真も撮られたがとりたて異常も変化も発見できなかった。
この事実は、福島教授を大いに落胆させた。しかし、同時に新たな見識を与えた。
福島教授は言う、
「わたし達の生命は、受精卵が成立したその瞬間から行進が開始される。それは時間軸に沿って流れる、後戻りのできない一方的なプロセスだ。
つまり、生命とは機械ではない。そこには、機械とはまったく違うダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能、それをわたしは「動的な平衡状態」と呼ぶ」
残像の命
福島教授の研究結果や発言をお借りするならば、わたし達の身体は受精卵が成立した時から、未来へと一方通行に細胞分裂を繰り返し、ひたすら死に至るまで一度も止まることなく進み続ける。
ルームランナーで歩いている自分を想像して欲しい。ルームランナーに乗った足元の床が、回転し後方に動いている。進む方向は未来で、自身の後方は過去だ。
ここで歩みを止めたら、自身は過去に流されてしまい、死を意味する。
歩き続けているその場こそが現在であり、今はここにしかない。立ち止まることはできない。しかし、見ての通り足元の床は後方へと進んでいく。
あなたはどうするだろうか。
おそらく、そのなかあなたは、床に足元が持っていかれないようにひたすら前に歩き続けるだろう。止まることは死を意味しているならば当然だといえる。
このルームランナーという世の中で、今に留まり続けるためには、文字道理歩き続けることになるのだが、時間的制約を受ける社会においては細胞にも寿命がある。ならば細胞が寿命を全うし、なお社会に留まり続けるには、新陳代謝によって日々細胞を入れ替えるしかない。
古い細胞が新しい細胞にとって代わり今に生き続ける。(例外といわれるのは神経細胞や骨格筋細胞など)わたし達の、髪や爪が伸びるように、細胞や分子に至るまで、身体のあらゆる部分でそれらはおきて、わたし達を今にとどめてくれる。
全部の細胞が入れ替わるのに数週間から数カ月といわれる。生まれて成人になるまでは代謝が良いが、年を重ねて老人になる頃には代謝は著しく低下する。床が流れる速度は一定だ。それは時間は一定のリズムで進み、早くなったり遅くなったりしないためだ。
つまり代謝の良い肉体は、床が流れる速度よりも細胞が入れ替わる速度の方が早いことになる。そのため、成長過程の若者は時間が経つのが遅く感じ一年が長く感じる。それと対照的に老人は代謝が遅くなるので、床の速度よりも代謝の速度が遅くなり、そのため一年があっという間に感じる可能性がある。
始めは余裕だった流れに、肉体は年を重ねるたびに次第についていけなくなり、いつしか流れに飲み込まれてしまう。
わたし達は、流れる時間の中で、今に留まるために、ロケット鉛筆の芯のように後ろの細胞が前の細胞を押し出し代謝を繰り返すことで成立させている。
では、思考する個であるわたし達はどこに存在するのか。
肉体の全てが常に破壊され再構築され、留まることのない動的平衡状態なのだとしたら、物理的なわたしは誕生して間もなく死ぬことになる。
そして、死んだわたしは、また新たなわたしになり、その新たなわたしも間もなく死ぬ。今、自分だと感じている自分は何年も前から自分だと認識しているはずだが物理的に存在していない可能性が高い。
ならば、わたし達は何なのか。
光速に動く粒子の映し出す残像のようなもの。ペンライトを持って左右に速く振ると左右の真ん中にはペンライトの残像が見える。これと似ていて、確かにそこにいた瞬間はあるが、そこに留まっているのではなく、常に動的に活動している。
しかし、そこにあたかも留まり続けているように他者には見えるのだ。わたし達は残像の命を享受している。解剖学者がいくら肉体の隅々を探しても心の座を探し出せないのは、そのためなのではないだろうか。
生命は細胞群の賛歌
これまで述べてきたように、わたし達の生命とは細胞の集合体であり、その細胞ひとつひとつに意志のようなものがある。そのため「えびす丸1号」のネズミのように膵臓の重要なタンパク質が欠品していても、他の細胞が何らかの形でそれを補い正常な肉体を生み出した。
ES細胞やガン細胞も決して機械の部品ではない。それ自体が生き物である。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、それぞれ一つ一つが生き物だからこそ、理解不能な死や奇跡のような出来事にも遭遇するのだ。論理通りに消耗し一定回数を過ぎれば破損してしまう機械部品のように人の想像に収まる代物ではない。
原子・分子・細胞は設計図を共有し、個々に意志のようなものを持ち行動している。おさらく細胞一つ一つに話す言語を持ち合わせていれば、わたし達も自身の身体の細胞を通して彼らの声が聞けるかもしれない。
彼らは隣接する細胞と細胞膜を介して情報のやりとりをしている。つまり会話ではないがコミュニケーションをとっていることになる。そのため、他の細胞と引き離され孤立した細胞は孤独死する。ES細胞のように強い生命力を持つ者は増殖する力を有しているがきわめてまれなのだろう。
銀河系の中に太陽系、太陽系の中に地球、地球の中に日本、日本の中に都道府県、都道府県の中に市町村、市町村の中に各個人の家があり、そこには、家族があり、人がいて、人のカラダの中には、無数の細胞や分子や原子が、原子の中には量子が・・・・・。
マクロからミクロへどこまで行ってもエネルギーは移動しながら活動し、引き寄せられ、離れ、また結びつく。
どこまでいってもやることは変わらないようだ。
おわり
参考文献「動的平衡 福岡伸一著」
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no.57 2021.3.12