あたりまえじゃない。
自分の中での「あたりまえ」のジャッジは、つくづくいい加減だ。
自分以外の人生を経験出来ないのに、何故あたりまえ、これが普通、って決めがちなんだろう?
決めてかかって失敗した経験があるにも関わらず、他人の中のあたりまえに自分のあたりまえを取り入れてもらおうとついつい躍起になってしまう。
勝手に望んで、勝手に裏切られたような気分になる。
何度経験しても、懲りずに繰り返してしまうこの感覚。
でも、
この感覚があるから、素晴らしい出会いを感じることも出来る。
初めて会ったのに、懐かしいと感じる人。
初めて訪れたのに、しっくりくる土地。
自分の中にあたりまえという基準があるからこそ、そんな人や土地との出会いに喜びを感じることは確かなことなのだ。
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あたりまえ
は、持ちすぎてもいけないけど、少しは持っていたい。
持っていることで、失ったときのありがたさに気付くきっかけが生まれることがある。
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先日、仕事で聴覚障害の外国人の方と接する機会があった。
言葉での説明が伝わらない、ジェスチャーで伝えきれないもどかしさを感じた。
その一週間後、私は突然声を失った。
朝、出張先で目が覚めたら、声が全く出なかった。
結果、回復までに時間を要するという診断結果が出て、声が出ないまま現場に入ったものの、周囲の計らいもあり、休暇を取ることを余儀なくされた。
あたりまえが突如奪われたとき、いかに普段の自分が恵まれていたかということを実感した。
久しぶりの休暇は、言葉ってなんだろう?という疑問を私に投げかけた。
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何処にいても自分らしくありたい、そう思って英語を再び学びたい気持ちになったものの、ロンドンでの数ヶ月、使用した言葉のボキャブラリーは本当に僅かだったと感じる。
感覚が合う人に出会えたとき、言葉で伝え合う以上の心の繋がりを強く感じる。
私の英語力は本当に微々たるものだ。だけど、日本人外国人問わず、凄く流暢だと褒めて貰えることが多い。
ロンドン滞在前はほぼ喋れなかったというと本当に驚かれる。
褒められるのは純粋に気分がいいし、嬉しいけど、本当に喋れない。
にも関わらず、喋れるように見える理由、それは単純に「居心地がいい人」としか過ごしていないからだと思う。
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言葉を学ぶことを通して、言葉以外の持つパワーを感じる。
そのことを改めて休暇中に思い返していた。
声を失ったのはほんの数日だけど、すごく長い休暇に感じた。
声以外は元気なのに...と、どうしようも出来ない状況に落ち込み、そこから少しずつ抜け出していく自分を、少し離れたところから観察している自分がいた。
私が出逢った言葉を喋れないあの女性は、とてもオシャレで明るい雰囲気を持っていた。
そして、私の咄嗟のつたないジェスチャーと周りの雰囲気で、すぐさま質問の答えを自身で見つけ出していた。
「喋れないこと」は彼女にとってはあたりまえで、喋れずともコミュニケーションを取る方法、情報を得る方法、彼女はそれらを既に学んでいた。
全てをひっくるめて、それが彼女のあたりまえなのだ。
3日前、久しぶりに自分の声を聞いた。
明日から現場仕事に復帰する。
休暇中に、動じない心と自分の信念を探し続けようと決めた。まだまだ自分のパワーをコントロールするには修行が必要なのかもしれない。
自分の中のあたりまえを捨てる必要はない、だけどアップデートし続けよう。
あの女性のように。