たましいの場所
昔なんとなくこんな題名の本を書店で手に取り、ずっと読み漁っていた記憶がある。
随分前の事なのでどんな内容だったかは明確には覚えていない。とある一人のミュージシャンの男性が思いの丈を書き綴った、ごく普通のエッセイだった。
僕は著者をよく知らなかったけど、文庫本の帯には宮藤官九郎さんや斉藤和義さんのメッセージが寄せられていたから、けっこう有名な人だったと思う。
人はよく自分の心を「たましい」という言葉を使って表現する。自分が自分であるために大切にしなければならないアイデンティティ。無論たましいと呼ばれる器官は肉体のどこにも見当たらないが、それでも確かに存在する精神の核。
シリウス・ブラックが死にかけた時に口から出してたアレである。白くて丸い水晶玉みたいなヤツ。
僕は今自分のたましいがどこにあるかが分からない。「魂の叫び」などと言ったりするが、困った事に僕のたましいは大人しいらしく叫んだりする様子がない。居場所を教えてくれない。
叫んでくれたらどれほど楽になれるだろう。君が何を望んでいるかを教えてくれたら、少しは力になれるのに。人間にも同じ事が言えるけれど、抱え込んでいる苦悩や思いは吐き出してしまった方が良いに決まっている。いつか本当に壊れてしまう前に。
松本人志さんは「魂は年を取らない」と言った。ひとつひとつ歳を重ね、自分の姿形が変わり、いつか子供の頃に抱いた夢を忘れてしまったとしても、たましいは絶えず、色褪せず、変わる事なく自分の中に在り続けるのだろうか。
僕は今年で26歳になる。まだ若い事に違いはないが、何というかとても微妙なお年頃である。気付かぬうちに遠いところまで来てしまったと言うべきか、少しずつ自分の肉体と精神の年齢がかけ離れていく様に感じる。
足の着かない深いプールで顔だけ出して浮かんでいる様に、泳ぐ事も溺れる事もできずに水の中でジタバタしている。誰かにビート板を持ってきて欲しい。できれば背中に付けるあの丸いヤツも。
昔から仕事が長続きしない。バイトも含めて本当に色々な職種を経験したけれど、場違いな感じが否めずどこへ行っても馴染めなかった。僕は割と居場所を求めて努力をしたのだが、どうやら周囲にはそうは見えなかったらしく、かつての職場には居心地の悪さだけが記憶に残っている。
僕ももう良い大人なので仕事がある事がどれだけ有り難いのかは理解しているが、「心ここにあらず」の環境に身を置き安い給料のために我慢し続ける生活に、どうしても彩りを見出だせなかった。たましいの場所を見つける事ができなかった。
幼稚な事を言っているのは分かっている。上手くいかない原因がほとんど自分にある事も分かっている。そして現実と向き合い折り合いを付け、地道に生きる道を模索しなければいけない事も分かっている。
同級生には東京の有名な会社に入ってエリートの道を歩んでいるヤツがいる。結婚して子供が二人居るヤツだっている。なんだかインスタグラムを見るのが最近少し辛くなってきた。
分かってはいる事だが、僕は僕でしかない。他人がどれだけ幸せな時間を過ごそうと家でお茶を飲んでいる僕には何の影響もないし、他人にどれだけ不幸な出来事があったとしても、やっぱり家でお茶を飲んでいる僕には何の関わりもないのだ。
理屈では理解しているはずなのに、なぜか時々不安に駆られ、他人のたましいが美しく見える。羨ましく見える。彼らが胸の内に抱える悩みや苦しみも知らずに。
僕は自分のたましいを、目に見えない精神の核を、いつか本当に自分が望むかたちでその居場所を見つける事ができるのだろうか。いや、できるかどうかではなく、もうやるしかないのだ。なんかもう後戻りできないところまで来てしまったような気がする。
たとえそれが金にならない事だったとしても、誰にも褒めてもらえない事だったとしても、誰にも見てもらえない事だとしても、「自分はこれで良い」と思える生き方を見つけ出すしかない。そうすればきっといつかプールの底にも足が着く。
建築家ルイス・カーンは50歳を過ぎて活躍し始め、瞬く間に世界的な権威にまで上り詰めた。誰かが彼に50歳まで何をしていたのかと問うと、彼はただ一言「考えていた」と答えたと言う。
年を取らない精神の核は、その人がどんな状況にあったとしても、自分が本当に欲しているものの答えを持っている。思いが成就するまで、たとえそれが望むかたちで実を結ばなかったとしても、僕は自分の事を諦めず、もう少し考えていたい。
たましいの場所は、きっとその先にある。