風の果てまで
三月はまだ寒い。
僅かばかりに日照時間が長くなり、季節の移り変わりと共に桜の開花予想などの話題が春の訪れを予感させるが、依然として寒いことに変わりはない。
朝晩の冷え込みは真冬のそれと大差はなく、油断して薄着をしようものなら瞬く間に風邪をこじらせる。おまけに三月になるのを待っていたかのように飛散する花粉もあいまって、ある意味一年で一番体調を崩しやすい。
それでも僕は三月になるとほんの少しだけ気持ちが明るくなる。暦の中で季節を感じているからなのか、どうも二月が終わると暖かい季節がやって来ると無意識に、形式的にそう思い込んでいる節がある。
冬が苦手だ。陽の光が差し込む時間は春夏に比べるとほんの僅かで、乱暴に吹き付ける冷たい風はいたずらに気力と体温を奪っていく。何かをしようとするモチベーションをへし折るには十分なほど、外の世界への関心と意欲が削がれる。
少し前まで豊かに緑が生い茂っていた木々は葉を失い、無防備な姿で強風に晒され、無惨に散った枯れ葉が乾いた空を舞う。
人々はイエス・キリストの生誕祭を祝ったかと思えば、その一週間ほど後には神社に初詣をして新年の門出を祝う。寒さで頭をやられてしまったのか、それとも世界平和でも願っているのか、タイトなスケジュールで立て続けに趣旨と信仰の異なる神様に祈りを捧げる。
寒い時期は温泉に行くに限る。冷え切った身体にかけ湯を乱暴にぶっかけて、内風呂で少し温めてから露天風呂に乗り込む。
四肢を震わせて辿り着いた露天風呂の極楽に勝るものを僕は知らない。一時的にこの世の因果から解き放たれたような開放感。自分の抱える葛藤を脱衣所に置いてきたかのように、言いようのない安心感に包まれる。
ミサトさんの言葉を借りれば、まさに命の洗濯。こんな心身共に安らぐリラクゼーションをたったの800円で享受できると言うのだから、世の中も捨てたものではない。この時ばかりは、湯船に浸かる他の利用客が全員カピパラさんに見える。
しかし幸せはそう長く続くものではなく、時間の経過は冷酷に僕を現実へと引き戻す。のぼせて気絶するまで湯船に浸かり続ける訳にも行かず、館内放送で鳴り響く蛍の光と共に、渋々脱衣所へと引き上げる。
ここである事実を思い出す。今は冬で、外は寒い。さっきまで安らぎの極地に居たはずなのに、湯船から一歩外に出た瞬間、僕は真冬にタオル片手に、何とも間抜けな面をしながら全裸でその場に立ち尽くしている。
火照った身体はもろに外気の影響を受ける。昼飯代を犠牲して温めた僕の精神と肉体は、さながら賢者タイムに突入したかのように落ち着きを取り戻し、急速に冷え込んでいく。
冬の温泉、いや露天風呂は結局のところ僕にとっては痛みを一時的に和らげるだけの娯楽に過ぎない。入浴後の火照った身体で夜風に当たって気持ち良いと感じれる季節こそ、温泉のベストシーズンだ。冬に来ても寒さに拍車がかかるだけだ。
意気消沈しながら脱衣所に戻り、隣の人に気を遣いながらロッカーを開ける。周囲をよく見渡すと、利用客は全員ただのおっさんだった。さっきまで居たはずのカピパラさんはどこにも見当たらない。ふざけるな。800円を返せ。
衣服と共に葛藤を再び身に纏い、寒空の下とぼとぼ歩きながら帰路に着く。温かい季節の到来を切に願いながら。
やっぱり僕は冬が苦手だ。
カレンダーを二枚めくり、暦は三月になった。何度も言うがやっぱりまだ寒い。それでも、もう少し辛抱すれば、厳しい寒さの果てに、心も身体も暖かく、穏やかな日々がやって来ると、細やかな期待をこの胸に抱く。
僕にとって三月とは、そんな僅かに差した光を頼りに、生きることへの活力が少しだけ湧いてくる、最初の春の訪れである。