揺り戻しと闘う、醜く頼もしい気持ち
うつ病と診断されてからもう3年が経ちました。そして自分は自己肯定感が弱く、考えがマイナスに傾きやすい人間だという理解もだいぶ深まりました。それでも、どうしても、この時期は来るようです。
実はつい先月まで仕事をしていました。フルタイムの接客業で、今までの自分からは考えられないほど社会に馴染んでいました。丁寧な言葉遣いを覚え、派遣という雇われ方も初めて経験。ただ、職場の環境に耐えきれず、ぷつりと辞めてしまいました。
今は療養、というより闘病中で毎日苦しんでいます。完全に闘っている状態です。案の定1人での外出はできませんし起きているのも精一杯です。ただただ頭の中で何かと格闘する日々。定期的に心臓がバクバクと動き、ありとあらゆる刺激から逃げるように布団に潜っています。完全に元の自分に戻りました。働いていた方がおかしかったんじゃないかと思うほど、簡単に元通りになりました。
天気のいい日は家の中でもサングラスをかけています。向かいのビルに当たって反射する西陽のせいですぐに心臓がバクバク始まるからです。髪はボサボサでパジャマのままですが、サングラスをかけています。
幸せなことに今日は雨です。すごく楽に過ごせています。ホワイトノイズを流しながらヨガマットに寝転がり、本を読んで、ここ数日でいちばんまともに生きています。そうしたらアウトプットをしたくなりました。
うつ思考が強くなると、いつも人格形成について考えます。そして辿り着くのは家庭環境のことです。
これまでも散々書いてきましたが、殴られたり酷い言葉を投げられたり、私にとって実家で過ごした時間は本当に最悪な過去です。今こんなに辛い思いをしているのはお前のせいだと強く浮かぶほど悔しくて辛くてたまりません。ただただ憎い、普段いろんなことを我慢できる自分にこんなにもはっきりと憎悪の気持ちがあるなんて。驚いています。
とはいえいつまでも全部を他人のせいにするのは良くないはず。自分でどうにかできることだってあるだろうし、まずはそれをやってから文句を言えとも思うわけです。しかし悲しいことに何をやっても自分自身を認めることができない。何かをやる度にどうしたら"まとも"になれるのかを考えてしまう。そして、ああ、この人は私が欲しかったものを手にしながら生きているのか、とすら。普段の何気ない生活にもすぐそばに醜い気持ちがあることに気づきました。
自己肯定感が弱い人間は何をしても不安が付き纏います。自己肯定感とは「私は愛されて当然」という自惚れの気持ちです。この自惚れは馬鹿にできません。他人と比べて優位に立とうという気持ちや、相手を下げるようなものではなく、自分のことを愛する健康的な気持ちです。これは赤ちゃんの頃に形成されるもので、いわゆる親からの無償の愛が鍵となります。地道な努力も、新しいことへのチャレンジも、辛いことの対処も、健康的な自己愛があれば乗り越えることができる。
私はそれを当たり前に持っている人が本当に、本当に、心底、羨ましいのです。私もそう育ちたかった、もっと自分の能力を素直に活かせるようになりたかった。愛されたかった、母が欲しかった。
この気持ちは相当なもので、しばらくはそれと一緒に生きようと諦めました。ただ不思議なことに憎い気持ちを当の本人にぶつけたいとか、羨ましいから幸せな人を攻撃したいとか、そんな気持ちは一切なくて。むしろ自分自身を変えたいというエネルギーになっています。それがとても嬉しくて、まだ真っ当に生きていけると思えました。
ちょっとした人間関係にも耐えきれず、ちょっとした環境変化にも耐えられない。そんな自分が本当に情けなくて面倒です。早く安定的に暮らせるようになりたい。"普通"になりたい。理想は決して高くないのにどうして私にはものすごく難しいことなんだろう。
それでもこうやって自分と向き合うことで、また少し自分を取り戻すことができました。一歩が小さく、遠回りをしているように感じるほどゆっくりとしたペースですがそれでも頑張っていきたいと思います。
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