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ワンダーエッグ・プライオリティへの叫び

※ワンダーエッグ・プライオリティのネタバレ&見た人にしか伝わらない書き方でお送りします。感情が先走って愚痴っぽいので注意


ワンダーエッグ・プライオリティ...
ワンダーエッグ・プライオリティ特別編(最終回)が終わりました...

終わったのか?

わからない…

わかったこともあるがわからない…

ワンエグは放送当時、多分4話か5話くらいの段階でSNS上で存在に気づき、配信サービスで最新話まで一気見しました。
その時これは近年稀に見る意欲作だと感じたのです。

これは久々にとんでもない作品が来たぞと。

幾原邦彦作品におけるシュルレアリスムを彷彿とさせる画面作りと世界観。
しかしながらそれらを現代風にポップにアレンジし、14歳という抜き身の感性を携えた少女たちが自然と立ち振る舞えるように設計する演出の手腕。
多感な少女の心情、行動、言葉を繊細に突き詰め、しかし生々しすぎずフィクションの世界に落とし込む脚本の巧さ。

あらゆる技術的な要素が高水準で担保され、1話1話の訴求力が桁違いだと思ったのです。
特に人間関係の描き方、群像劇としてのクオリティの高さに、岩井俊二監督のテレビドラマ「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」で受けた熱量と同じ感動がありました。

そんな本作、冬の1クール12話での放送となっていたわけですが、制作が間に合わず8話で総集編をはさみ、おまけに後半に膨らんだ設定をたたむことができず12話(本来は11話)で物語は途中のままクール終了。
3月の放送終了から3ヶ月経った6月末日に「特別編」と銘打って物語の続きが描かれるという運びになったわけです。

正直いって不安しかありませんでした。

ほんとに終わらせられるのか?

中途半端に終わったとはいえ1クールが終わったことに変わりがない。
だいたいただでさえカツカツのスケジュールのなか12話なんて放送当日の昼まで制作していたなんてことも語られていた。

制作進行的な部分でいえば、特別編までの3ヶ月、制作会社のCloverWorksは「シャドーハウス」のアニメも手がけている。

そんななかで、放送が一応とはいえ終わったワンエグの追加話。
膨らんだ設定をうまく消化できるほどの尺は用意できるのか?
あの高カロリーな作画と丁寧な演出を手がけるチームをもう一度集められるのか?
そもそもそれに当たる予算が降りるのか?

制作現場の事情なんて全くわからない、そんな素人の足りない頭でもそれくらいの心配はしてしまう。

そんな不安を抱えたままの放送当日。

結果からいって、「なんてもったいないことを…」
という感想が出てしまいました。

オチがぶん投げられることはだいたい想像はついていました。

それは1話から順に話を追っていけばわかることでもありました。
問題はそのぶん投げ方なのです。
ただ状況を説明して、収拾がつかないことを暗示させて、結果として物語の先を視聴者に委ねる。

そうじゃない。
それはこの作品の本懐ではなかったはずだ。
僕はそう思ってしまいました。


ワンエグの魅力

僕がこの作品を素晴らしいと思ったのは、フィクションの持つ力、映像の持つ力、アニメという総合芸術の持っている「言葉では言い表せない特別な感情」を抱かせる力がこの作品にはあると信じさせてくれたからでした。

それはただセリフや設定解説のような描写で物語を「説明」するのではなく、キャラクターとその周囲にある世界を作り手の視点や描き方を通じて「表現」すること。

その表現のなかにキャラクターの心情や、物語が伝えたいメッセージを視聴者が感じ取る。それがこの作品にはできる。少なくとも僕はそれを実感できた。

それを顕著に感じたのが7話「14歳の放課後」。
僕はこの回にこの物語の全てがあると思ったのです。

まず端的に言ってこの作品のテーマは「断絶」だと思います。

あらゆる人間関係のあいだに横たわる埋められない溝。

アイにとっての小糸と沢木。
ねいるにとってのアイデンティティ。
リカにとっての家族。
桃恵にとってのジェンダー。

登場人物たちの間にはだれとも共有できない如何ともし難い溝がある。
各話を通じてそれはさりげなく伝えられていました。

その7話はまさにリカと周りの「断絶」を描いている。

まずリカはアイ、ねいる、桃恵との関係に「居場所」を見つけたように感じている。
5話における慟哭がまさにそれ。

「友達ならできたじゃんか!」

ちえみに対する執着を忘れられる場所。
自分の弱さ、醜さを受け入れてもらえる場所。
ワンダーエッグを通じて似た境遇を分かち合える場所。
ある意味現実逃避な感情からくる三人への信頼があのセリフにある。

7話冒頭でのパパのファイブカードという露悪的な情報開示、そして母親に対する不満の吐露。
リカが求めているのは「自分を受け入れてくれる繋がり」。
自分の生い立ち、家族との不和、それらがもたらしたどうしようもない欠落感を埋めたいという気持ちがあの一連のシーンから伝わってくる。

しかしそれはねいると桃恵には伝わらない。

ねいるには親がいない。リカの状態を俯瞰でしか捉えられない。

桃恵は人の陰のある部分にピュアすぎるきらいがある。近しい人間の偽悪や欺瞞なんて疑えないし受け入れられない。
(例えばアイが学校へ通うという話を四人でしている際、リカの若干の下ネタを桃恵だけが分かっていない表情をしているのがそれとなく描かれている。こういうのが本当にうまい)

そこに来て、同じく母親との関係に悩むアイがリカにとっての理解者の立ち位置にくる。離婚を経た母子家庭。母親を他人に感じる瞬間。そういうものを体験したもの同士に通じ合う感覚が二人にはある。
子供らしい親の悪口で盛り上がるという建前から、ポツリポツリとリカの本心が明かされる。

自分が嫌っている「大人」にいつか自分も成ってしまう。
そんな不安。「大人」というものに信頼を置けない自分の脆弱さ。
父親に会いたい。会って自分のことを肯定してほしい。
「大人」になることへの不安を取りぞのいてほしい。

アイはそんな吐露を何も言わず聞いてくれる。
けれど、やっぱりアイとの間にも横たわる溝がある。
アイの家庭も離婚して父親がいない。
しかし父親に会わせてもらえないわけではない。
関係は途切れたけれど、閉ざされたわけではない。

リカはアイの家庭状況を聞いて、やっぱり自分とアイは違うんだという当たり前のことに孤独を募らせる。

アイ「いつか会えるよ」

リカ「いつか…いま会いたいんだ。いま…」

©WEP PROJECT

リカが金網越しに遠くを見つめ涙をこぼすカット。
あそこに至るまでの構成、演出、全てが素晴らしかった。

リカ、アイ、ねいる、桃恵にとっても誰かのあいだにある「断絶」。
それでも、ワンダーエッグというアイテムを通じて四人は出会った。
逝ってしまったその人を取り戻すために。死という完全な断絶をどうにかするために。
どうしようもないことをどうにかしようとするため、結果的に集まった四人。
偶然出会った似た境遇の人間。その間にも当然のように溝はある。
だけど目を合わせ、手を繋ごうとする。自分なりに。

でもその手は結局は離れてしまう。

やっぱりこの四人もたまたま一緒にいるだけなんだ。

だけど最初から見ない、手を伸ばさない、そんな態度でいたらこの瞬間の絆すら生まれなかった。

これから生まれるかもしれない絆の可能性すらなかった。

だから彼女たちは自殺した子を取り戻すため戦う。

もう一度、手を繋ぎ合うために。


7話のラストにおけるリカと母親の千秋との会話にそれが表れている。

千秋「どうせ、リカも私を捨てるんでしょ」

リカ「うん。でも今じゃない」

溝は埋まらず、いま一緒にいる誰かとはいつか別れが来る。
でもだからって、今その相手と向き合わない理由にはならない。
溝があっても、離れ離れになっても、家族だった。友達だった。
その事実は変わらないんだと。

「断絶」というネガティブなテーマを少女達の群像劇に落とし込み、溝の向こうから手を伸ばしてみようと気まぐれでも思うこと。
きっとそういうところから人間関係は始まるんだという普遍的でほんの少し前向きなメッセージを導き出す。


提示された問題を解決するだけの一辺倒な物語が全てじゃない。設定されたゴールに向かうだけの物語が全てじゃない。そういった物語にはこれはできない。

人と向き合うことが怖くて、誰にも話せない孤独を抱えていて、なんとなくで一緒にいるだけの誰かがいて、その「断絶」に寂しさや不安を感じている人。
そんな人にいつかほどける絆だとしても、誰かと手を繋ぐことのあたたかさを丁寧に、押し付けがましくなく見せる。
そんな人にちょっとの勇気や心の余裕を与えることがこの物語にはできる。

それが僕がこの作品に感じた最大の魅力だったのです。

特別編を見ての全体構成への疑念

そんな感動を覚えていたワンダーエッグ・プライオリティ。
しかし特別編でなんとも残念な幕引きをしてしまったというのが、正直な感想。

やはり、先に心配していたことが現実になったのか、画作りも演出も苦肉の策で絞り出したかのような感じでした。あの写実とパステルカラーを調和させた美しい背景も、活かしきれていなかった印象があります。

映像面で残念だったのはFIXでの長回しシーン。

©WEP PROJECT

ワンエグの強みの一つはキャラクターの芝居。繊細な表情やトーンの変化を活かすためにカメラを極力動かさず、じっくりとキャラクターの心情をさぐれるような演出がなされていました。
しかしこの特別編、FIXはいいとして、ロングショットを多用しすぎてキャラクターの表情に迫れない。
終盤のリカとアイの会話シーンさえ後ろ姿をただ映すだけ。
全体を通してひとつひとつのカットが切って貼ったようになってしまっている。
情緒の変化を敏感に捉えるのがこの作品の強みなのに、これではせっかくの良さが薄れてしまうのです。


話にも盛り上がるポイントを見つけられない。ただ状況が進み、変化があったと思ったらさらっと説明で流され、そこから生まれるドラマが薄い。
バラバラの出来事を並べただけのように感じる。
膨れ上がった問題を消化するでもなく、かといって全部に触れないわけでもない。
説明しようとして説明しきれなかった感が出てしまっている
はじめから説明しないのとは訳が違う。
これでは「匂わせ」にもなっていないと感じました。

ここでふと全体の構成に考えがいきます。
これは11話から思っていたことなのですが、

フリルのエピソードは果たして必要だったのか?

この疑念が特別編を通してさらに強く残ってしまいました。

ワンダーエッグ、少女の自殺の原因、これらの要素をフリルというキャラクターに委託するという展開を取るならば、もっと序盤のうちからフリルの存在を匂わせる、もしくは登場させる必要があったと思うのです。
フリルが元凶であるということを四人に早い段階から意識させる。そうすれば話の流れはもっとスッキリします。
特別編の尺も結局は前半を振り返りにして、本編は本放送と同じ尺だったわけで。
つまり1クール12話できっちり終わらせる予定だったのだからなおさらです。

ただそれだとフリルを倒すなり説得するなりして「はい、おしまい」となってしまう。1クールの尺でフリル、アイと小糸、ねいるの妹、それらを一気に解決する方法がない。
この三つの問題はバラバラの方向を向いているから。

しかしそもそもフリルを倒す理由が究極的には四人にはない。
四人の目的は自殺した大事な人を蘇らせること。
フリルに立ち向かう必然性が弱い。

リカには万年を殺された恨みがある。
ただ桃恵のように恐怖ですくんでしまうならそれまで。桃恵の目的は達成はされてはいるので、フリルにわざわざ挑むこともない。
アイやねいるも同様で、結局はアカと裏アカの都合に付き合わされるだけの話。
四人の立場的にはそれも無視してしまえばいいわけです。

達成する必要のない目的。そんな印象がフリルにはある。
それまでのワンエグの描き方からもフリルの存在は浮いている。

翻ってフリルを登場させなければ、「死の誘惑」への解釈などどうとでもとれる。

パラレルワールドからの干渉とかそういうのでもいい。
アカ、裏アカの研究だってそれを軸にすればすんなり進められる。
パラレルワールドからの干渉でこちら側の少女は自殺してしまう。
夢の世界でパラレルワールドと繋がってしまって、そちらに引っ張られた少女は現実で自殺してしまう。少女性をガンガンに推しているわけだから、そこは多感な少女はその干渉の影響を受けやすいとかなんとかで。
ひまりの死の原因もそこにあって、だからワンダーエッグを作った。
ワンダーキラーは因果の歪みを修正しようとする力。死んでしまった少女を生き返らせないようにするための強制力とかなんとか。
そういうまどマギ的厨二設定で全然よかった。

その上で少女たちの群像劇を描き、出会いと別れ。絆と断絶。そのダイナミズムを美しく描くことができたんじゃないか?

ぶっちゃけたことを言えばワンダーエッグの仕組みや、パラレルワールドの謎などはブラックボックスでよくて、むしろアイと小糸との断絶をしっかり描いて欲しかったです。

小糸がアイに対して特別な感情があって近づいたとは最初から思っていませんでした。
あれは結局、自分と同じ爪弾き者なら取り入ることができるんじゃないか?という打算のもとにアイと「親友になろう」なんていきなり持ちかけたんだと。
そんな小糸の対人関係の作り方にはずっと疑問がありました。アイに対しても沢木に対してもいきなり距離を詰めすぎだろと。

そして特別編で小糸の死の真相からやはり人格に難のある人物なことがわかったわけです。要するに小糸はありがちな悪い女で、そういう一面にアイは「見て見ぬふり」をしていた。
それでも小糸の強引な友情に孤独を救われた。
嘘の友達でもそれが嬉しかった。
その一点が、アイが溝のむこうにいる小糸を見つめる動機でもあった。

だったら、復活した小糸との断絶を今一度問うて、小糸との関係をやり直そうという気をみせるのか、それともきっぱりと決別してのねいる、リカ、桃恵との友情に救われるのか。
そういう展開にもできたんじゃないか?

でも結局のところ死んだ人間は生き返らず、パラレルワールドの人間と入れ替わるかたちで少女は復活する。
でもそれをやるなら尚更フリルいなくてもいいんじゃないか?

こんなにフリルに文句言ってますけど別にフリルが嫌いとかそういうわけではなく、全体のなかのファクターとして要るかどうかという疑問です。
11話はそれ単体でみればめちゃくちゃできたサスペンスホラーだなと思います。
でもそれ1クールでやるならもっと前からその展開は積んでいかないのかな?と。

アイの目

主人公、大戸アイという少女のパーソナリティをみても、この話の展開には納得がいかないのです。

大戸アイは良くも悪くも周りが見える子だと思います。
キャラデザをオッドアイにしたのも、彼女の視野、つまり「目」に注目させたいからなのだと受け取りました。

1話にてミテミヌフリはエッグの少女だけを追いかけることに気付いたり、いじめの標的が小糸に移った時も自分がまた標的にされることが怖くて助けられなかったり、そういう自分に対する周りの反応に彼女の目は敏感です。
それは彼女の臆病さで、ネガティブな一面です。
本人がオッドアイをコンプレックスにしている構図とリンクします。
この目のせいでいじめられる。
この周りを伺う目のせいで私は友達を亡くした。
序盤、アイの「目」はネガティブな内容を映すものでしかありませんでした。

しかし、その「目」のおかげでポジティブな部分も見つけられることも描かれます。
ねいるのスタイルの良さに注目したり、リカがほんとうは心優しい部分を持ち合わせていることに気付いたり、男扱いされることに胸を痛める桃恵に「どう見える?」と問われ「泣いている女の子?」とすぐ答えたり。

ものごとを敏感に捉えるその目は、ネガティブなものと同様にポジティブなものを捉えることができる。

だからこそ6話、学校に行くと決意したあのシーン。
雨雲が晴れ、前髪を払い除けたアイはまっすぐな瞳で沢木と向かい合う。
あの瞬間からアイの「目」はただ周りを伺うだけの目ではなくなったのです。

©WEP PROJECT

アイは四人のなかのポジションを確立していきます。
合理的なねいる、感情的なリカ、デリケートな桃恵。
その間で振り回されていた6話までとは打って変わって、四人の関係をとりもつようなポジションになりました。
リカの話を真剣に聴き、ねいるの内に隠した気持ちに寄り添い、桃恵が離反しそうになったときも仲裁に入る。

周りをただ見るのではなく向き合うようになった。
ワンダーエッグという共通の目的で集まっただけの四人が、アイが真っ直ぐ相手を見て、手を伸ばす姿勢をみせたことで確かな友情を作り始めた。
(リカがねいるをラーメンに誘うところとか最高じゃん)

沢木と母親にも向き合い、小糸の死にもちゃんと向き合うときめた。

さらにパラレルワールドでは自殺してしまった自分との邂逅を通じて、弱かった自分、向き合うことから逃げた自分とも向き合い励ますことができた。


そういうアイだからこそできることをちゃんと描けるはずと思ったのです。

しかし、フリルの設定にどうしても物語の方向性を引っ張られてしまう。
フリルを倒す=問題の解決。そんな構造になってしまう。そういう構造でもいいけれどそうするんだったらもっと序盤から……ああもう何回も言っちゃいそう。

とにかく、あの四人の関係が自然消滅するにしたって、その過程をちゃんと描いてよ……
あの四人がアイがいたからこそ続いた関係なら、アイの存在を他の3人がどう見ているのかとかもうちょっと描いてよ……


と、ここまで愚痴っておいてなんですが、こんなの結局一視聴者のわがままで、こうだったらいいのにという身勝手な妄想でしかないんです。
でもこの作品が大好きだからこそ残念で残念でならないのです。


邪推と無念

これは本当に邪推なんですけど、脚本の野島伸司さんの話作りが「1話22~3分×1クール」のアニメのフォーマットに合ってなかった感じがあります。
1話1話の描き方は素晴らしいのに、全体のまとめかたが雑になってしまった印象。
じゃあ2クールかと言われたらそこまでは要らない、そういうスケール感の物語構成。

僕は野島さんの手がけたドラマは見ていないので、これがこの方の本来の作り方なのか定かではないです。生まれる前の作品がほとんどですし、野島さんの元来の実力が出せなかったのかどうなのかはわからない。
ただネットのインタビューや、ワンエグBlu-rayのブックレットのインタビューを読んだ感じでは、カチッとしたプロットは作らずライブ感で創っている印象があります。
書きたいことが増えちゃったみたいだし。
だから後になるほど話が膨らんでしまったのかな?

もしかして化物語のアニメ化のときみたいな1~12話(TV放送)+13~15話(web配信)みたいな変則クールならよかったのかもしれないけど、それこそスケジュールと予算、人材を確保できたらの話でしかないんですよね。


いやでも描きたいことや、表現方法は間違いなく僕には刺さったのです。
僕は深夜アニメは幾原邦彦監督の輪るピングドラム、日本映画なら岩井俊二監督の花とアリス、そういう世界観や人間ドラマが大好きで、そういう匂いをワンエグからは感じたんです。
非常に高いクオリティを誇っていただけに、非常に残念でならない。
できたら続編というかディレクターズカット版的なものを出して欲しい…
でも無理なんだろうなあ。

しかし若林信監督という新たな才能を見せてもらえたこと、Clover Worksの画作りには感動を覚えました。シャドーハウスのアニメもすごく面白いですし。

野島さんにもなんだかんだ期待しています。アニメ好きみたいだし。
アニメでの話作りの感覚をつかんで、ぜひ次の作品を見せていただきたい。

Blu-rayは揃えます。
ドラマCDもあるみたいだし、ちょっとは余韻を味わえるかな。

そんなかんじで、衝動のままに殴り書いたこの文章が僕の初note。
まったく人のこと言えませんね。

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