見出し画像

「自分のことなんだから聞いた方」がいいとは言うけれど…

知識を持っている人ともっていない人の『隔たり』というものは、この世の中にはたくさんある。

とても当たり前のことであるが、私のような「患者」と「医師」の間には『医学』という点での乖離というのはもちろんあるし、「金融機関の人間」と「一般人」では『金融知識』に当然差がある。「料理人」において「一般人」との『調理の能力の差』はもちろんである。

こういった形で、世の中には『知識や経験の隔たり』というものがありとあらゆる方面で溢れている。

今日はなぜこんな話をしているかというと、今まさに私が直面している「治療」という点について少し話しておきたいことが最近あったからである。

「全てのことについて知る必要もなければ、考える必要もない」

という考えを、私は持っている。

自分にコントロール出来ないところにあれこれと労力を使うのは、精神面の疲弊を招く可能性があるという立ち位置にいるからである。

ただ一方で、自分が「知りたい」いや、「聞いておきたい」と思ったことについては基本的に口を出すようにしている。

その時に相手側からしっかりとした『説明プロセス』がないということは往々にしてあることである。

その時に常に思うのは「なぜその説明プロセスを省くことを『正』として、私に説明しているのだろうか?」という疑問である。

そしてこの小さな疑問は、色々な場面で確信へと変わることになる。

▼ 小さな疑問が大きな不安へ

小さなところから始めると、Twitterで「しっかりとした情報開示をしてもらえなかった」というツイートを度々目ににすることがある。

表題にある通り「自分のことで気になっているんだから、自分で聞けばいいのに」と思うこともないわけではないが、そもそも「何を聞いたら良いのか分からない」いう状況にある人間に対して、それを求めるのは少々酷ではないのか思う。

『説明責任』を持っているのであれば、相手が「どのようなことに疑問を持ち」、「どのようなことに不安を感じているのか」を半歩先回りして必要な説明をすべきではないのかと思う。

ましてや明らかに「医療者」と「患者」との間には知識の差があるのだから、「聞かれたら答えますよ」というスタンスの有識者を元々私は好きではないのであろう。

だが、残念ながらそういった類の人間の方が圧倒的に多いと感じるのが、この世の中である。

医療者の方に問いたいのだが

「あなたは医療者の前に、人間ではないのであろうか?」
「医療の勉強する前に、人間についてもう少し考えるべきではないか?」

と思う場面は、残念ながら日常に溢れている。

「なぜ自分から説明のプロセスをしっかりと開示して行かないのだろうか?」というところを想像で考えていくと、おそらく「余計なことを言って後々揚げ足を取られるようなことを避けているのではないか」という結論に行き着いている。

一方で、「必要な説明を省いて、後で詰められることがない」と考えているのが少々滑稽であるとも思う。

▼ 最近の学び

実際、直近で私の身に起こったことを簡単に書いていく。

従前、抗がん剤を投与する際にはわたしは首から薬剤投与のための器具が付けられていたのだが、最後の最後になってなぜか右腕からの別器具の装着を進められた。

新任の医師であった。

私は「首からのままでいい」と最初は答えたのであるが、何かしら理由をつけて腕からの装着に彼女はこだわった。

「みんながやっているから」
「最近の流行りだから」

というのが、当初の彼女の説明の理由である。

後でこの辺について、わたしは彼女に確認したが「自分はそんなことは言っていないと」弁解が始まったので、もう彼女のことを全く信用はしていない。

転院を控えていて、結果的に揉め事を避けたい…というよりも、「もうこの人とも会う事がないだろう」の様な形で、多少諦めにも近い感情で右腕からの器具装着を受け入れた。

その結果として複数のトラブルに見舞われ、最終的に彼女に色々と確認することになったのだが、装着の経緯や彼女の知識、説明能力等を勘案すると最初の時点で「しっかりと確認しておけば…」という後悔の方が大きかった。

はっきり言って、妥協した自分が悪い。

そこで改めて思ったのが、「相手にどう思われる?」といった評価というのは正直どうでもよくて、自分がその時にはある程度の『納得解』を得るためにはそれなりに自分からしっかりと動かないといけないというところである。

これから大きな治療を控える自分としては、おそらく「自分で考え、自分で質問する」というところを徹底するであろう。その点に関しては、そこに気づかせてくれた彼女の対応に感謝はしている。

…その点「だけ」であるが。

▼ さいごに

人間の欲求として、どうしても「面倒くさい」とか「ネガティブに思われたくない」という感情はまだ私でも持っていたのであるが、今回の一件やTwitterでの多くの人たちの悩みや疑問を通じて『取るに足らないこと』であると感じた。

後悔は絶対するのであるが、少なくともその段階でしっかりと『納得解』を取っておかないと『自分なりの結論』を出せなくなってしまうからである。

この世の「聞かれたら答えますよ」という風潮を一気に変えることはできない。であるならば、「必要なことを聞くために能動的に考える」ということに、もう少し重きを置かなければいけないのということを今回の一件で学んだ。

「聞かれたら答える」というのは本当なのであろうが、それは裏を返すと「聞かれない限りはそこまで説明しませんよ」とも捉えられる。

しっかりとこちらから「必要なことを聞く」ということは、往々にして『自分の人生を変えることになるかもしれない』ということを最後に付け加えておきたいと思う。

個人ブログも更新しましたので、よろしければ。
今回は『組織・ビジネス』のカテゴリーです。

負担のない程度に週2~3回の更新を目指してこれからも日々頑張っていこうかと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?