なんのために生きているのか
いっそ低気圧のせいに出来るから毎日雨ならいいのに、なんかたまの晴れ間のせいで落ち込む気持ちも自分のせいにするしかなくて、やり切れなくてついコンビニでチューハイ買って帰ってる人、そうあなたと私です。
こんばんは、じゃないと言います。変な名前だけでも覚えて帰ってね。
今日は朝起きた時から「なんか無理だなあ」と思ってしまって、それでも「なんか無理」くらいで3年生の必修授業を飛べるほど私に単位の余裕はないので家を出て。最寄りでなんか知らんけどボロボロ泣いて、ビショビショの頬っぺをマスクで隠して電車に揺られて、大学で一回吐いて、戦争文学と道徳教育について学んできました。
この頑張りはスタバのフラペチーノ1杯分に相当すると思ったので、メロンのフラペチーノがぶ飲みしたらなんか体調良くなりました。多分普通に貧血です。物騒な導入でなんかすみません。「スタバ行ったんだ〜」って言いたかっただけです。
私はカフェでは基本的に本を読むんですけど、今日は星野源の『いのちの車窓から』というエッセイを読みました。
ちょっと聞きたいんだけど、周りに「星野源嫌いなんだよね」って人いますか?いなくないですか?
私の周りにはいなくて、きっと世間一般的に見ても少数派何じゃないかなって思うんですよね。
でも、星野源は、紅白にも出場し、音楽に詳しい人も唸るような音楽を作る歌手であり、それでいて複数の人気ドラマにも出演し、ラジオも本も出している。おまけに奥さんガッキーだぜ。普通に超人だから、このスペックだけ見たら恨みとか持たれても仕方ない感じするんですよね。
だけど、その柔和な表情なのか、話し方が穏やかだからか、単に小柄だからか、なんか親近感がある気がしちゃう。その星野源の親近感の湧き出る泉を垣間見ることのできる一冊が『いのちの車窓から』です。
くも膜下出血から復帰後の仕事や暮らしについてのエッセイなのでこういうタイトルがついてるんだと思うんですけど、やっぱりこの「いのち」を忘れて読むことは出来なくて、どの章でも「いのち」とか「生きる」ってことを意識してしまいました。
最近すごく思うことがあるんですけど、どうして自分は
こんなに生きるのが下手なんだろうって。
冒頭に書いたみたいに、朝起きて「なんか無理だな」って思う人は多分めちゃくちゃいっぱいいるけど、そこから何となく立て直して皆生きてるんだと思うんです。二日酔いでもないのに大学で吐くなよな。
私はほんと、恵まれてる方だと思うんです。第一志望の大学通って、学費も親が出してくれてて、バイト先でも褒めてもらえるし、地元の友達と飲みに行ったりも出来る環境だし。なのに、朝から泣いて吐いてる。どう考えても生きるのが下手すぎてるなあって思います。
他にも、この前バスに乗ってる時に、白状ついたお爺さんにスっと声をかけたOLの人を見て、「自分はああいう風に助けられるかな」と不安になって悶々としたり、塾バイトで担当してる子の成績が伸び悩んでて、「どうしたら成績上がるかな」と、気づいたら3時間も考えてたりしました。普通に下手すぎる。
人には「感受性が豊かだね」とか「そんな先生に見てもらえたら嬉しいよ」とか言ってもらえることもあります。「気にしすぎだよ」「考えない方がいいよ」とも言われる。だけど、それが出来ない。ネットではHSPとか言うけど、普通に人を傷つけまくってるので違うと思うんですよね、別にどっちでもいいけど。
そんな自分を、星野源は肯定してくれた。
前述の通り、このエッセイは暮らしとか仕事のことが書かれているんですけど、それが、まったく同じ扱いで書かれているんですよね。
どういうことかと言うと、紅白に出た時のことと、散歩してたら団地から昼食を作ってる匂いがしてきたことを、同じ熱量で書いてるんですよ。
大泉洋と、一般家庭の母親が同じステージにいるのなんて、『いのちの車窓から』でしか見れないスペシャル対バンですよ。チケットぴあじゃなくて全国の書店で手に入れてくださいね。
星野源はきっと、日常に対してのアンテナをいっぱい張り巡らせているのだと思う。
公園でひとり手作り弁当を食べるサラリーマン、大盛りの焼きそばみたいな形の雲、深夜の住宅街の孤独、小さな中華料理屋の国籍不明の声のデカい店員。
作中で「もし透明人間になったら何をしたいか」という話題の章があるんですけど、そこで星野源は
「授業中、好きな女の子の机の上に、桜の花びらをら窓の外から偶然入り込んだかのように運びたかった。」
って言ってるんですよ。ささやかすぎるじゃん。
こういう、誰しもの日常にあって、でもそれをそれとして認識しながら生きている人は少ない、そんな些細な対象に対しての表現力や感性が豊かなのだと思いました。
だから、どんなおしゃれな音楽にも、どんなシリアスな芝居にも、フィクションの狭間にノンフィクションがあって、そのノンフィクションは多くの人がサブリミナル的に日常で見聞きしているものだから、スっと胸に広がっていく。
そして、星野源はそんな日常を丁寧にいきることを「なんかいいな」と思っている。
「いい文章とはなにか」についての章では、
「人は何かを伝えたい時、これを伝えることでこう見られたい、という欲求がどうしても混ざってしまう。それが削ぎ落ちた文章が、よい文章だと思う。」
(スーパー意訳です悪しからず)
と述べている。このように、やっぱり星野源は「ありのまま」の良さを誰よりも強く信じているのだ。
私は、色んなことを考えてしまって、吐くほどつらくなって泣きながら生きている場面が、きっと他の人より若干多くて。多分それは考えすぎ、とか感じすぎなせいなんなと思う。
だけど、好きな音楽を聴いている時、本を読んでいる時、何かを勉強した時、誰かに何かをしてもらった時、きっと得る喜びも他の人より若干多いと思う。
星野源は、そんな自分を、いいなと思わせてくれた。
ありのままを、ありのままに、伝えたい人に伝えていく。それは受け取られないかもしれないし、共感してもらえるかもしれない。
私は、隣で共感してくれた人が風邪をひいたときに、りんごを剥いてあげるために、生きてみようかなと思います。ささやかすぎてるかな、いいっしょ、これで。
ありのままで生きる勇気がちょっと貰える本です、是非。