ふつうに生きること
聴覚障害を持って生まれた僕は、聞こえる人たちよりも【音】について敏感に生きてきたように思う。小さい頃、耳が聞こえにくいと判明し大学病院で検査を受け、そして補聴器を付けるようになった。
そして色んな経験をしながらも大学生になっていた僕は、明らかに耳の聞こえが悪くなっていることに気が付いた。実は、中学の終わりごろから思春期の恥ずかしさで補聴器を付けていなかった。周りと違うことが嫌だった。
そのことが原因か、中度難聴だったのが高度難聴にまで悪くなっていた。
高度難聴にまでなると補聴器をしていても私生活に大きく影響が出てくる。(この聞こえ具合や影響度合いは個人差が大きい)
そこで改めて補聴器を付けることになるが、自分が中学生の頃とは補聴器の性能もかなり良くなっており、デザインもスタイリッシュになっていて、汗をかいても壊れないことに感動していた。昔の補聴器は汗をかいたら錆びてすぐ壊れており、使い勝手も悪かった。
なにより音の聞こえ方がとても良くなっていて、クリアで聞きたい音をしっかり拾ってくれるようになっていた。今まで聞こえていなかった音に感動したことをよく覚えている。
その時から、「自分が聞いている音と他の人が聞いている音の違い」というものに敏感になった。音を失うことで音の大切さにはっきりと気付くことができた。人とは皮肉なもので、失ってから失ったものの大切さに気付くことがほとんどだ。
自分の当たり前と他人の当たり前が違うこと。
そんな簡単そうで簡単じゃないことに改めて気付かされた。
僕はたまたま聴覚障害だったからで、視覚障害であれば視覚なのかもしれないし、味覚障害なら味覚かもしれないし、性別や他の違いなど個人をありのままに認めようという時代になってきている。
会いたい人に会うことができない、気軽に出掛けたくてもできない。
そんな生き方を数か月間経験したことで様々なことが起きていた。
今までの「ふつう」が驚くような速度で変わっていく。
数週間前までの当たり前が当たり前じゃなくなる瞬間を、僕らは何度も何度も見てきた。
マスクをずっとすることは、当たり前ではなかった。
でも花粉症がひどい人にとっては1年中マスクすることは当たり前だった。
ぼくにとっての「ゆたかさ」とは自分らしく生きることだ。
自分にとっての当たり前は他人にとって当たり前じゃないこと。
相手が「ふつう」にやっていることは自分にとって「ふつう」じゃないことは往々にしてよくあるのだと。
そう考えた時、「ふつう」という言葉にとらわれることは止めた。
思春期に「周りと違うこと」が嫌で補聴器をしなくなった自分が、数年前から聴覚障害をもつバリスタとして活動しており、そして周りとは違うことがしたいという行動を積極的にするようになっている。
自分らしく生きるようになって多くの物を手に入れたし、多くの物を失ってきた。でもひとつ言えることは、心の「ゆたかさ」は今までのどんな時よりも増えているし、これからも自分らしく生きることを止めなければ「ゆたかさ」は増えていくように思う。
不思議なもので、聴覚障害である自分を受け入れたことで「聞こえない」という事は、「音が聞こえない」ということに関してネガティブな気持ちはあまりなくなっていた。
もしかしたら明日から自分の耳は音を完全に失うかもしれない。
そう言われても焦りも怖さも不安も強く感じない。だがそれは音を大切にしていないというわけではない。音は大切だが、聞こえなくなった自分を怖いと思うことは、聞こえない自分を受け入れることができていないという事になる。
自分の周りとの違いを受け入れることと、自分の周りとの違いを大切にすることは相反することのようで、両方ともに大切な事。
聞こえようが聞こえなかろうが、自分は自分であり、聞こえない世界(手話を第一言語として生きているろう者の世界)が僕は好きだし、ずっと声での会話に囚われていた僕は、生まれた時から手話に出会っていたかったとも思う。
自分らしく生きるという事は簡単ではないし、生き方の黄金ルートはこうであるべきという固定観念や偏見が多く存在する現代社会では、そのルートからはみ出しているだけで称賛もされるし誹謗中傷もされる。
それはきっとこの先もずっと、多少の社会の変化はあれども続いていく社会の在り方なのかもしれない。
でも僕にとっての「ゆたかさ」とは「自分らしく生きる」ことで、「自分らしさ」の答えを追い求めて歩み続ける人生が自分にとって楽しいことなんだと思う。
どれだけお金や物での「ゆたかさ」があっても、心の「ゆたかさ」がなければ僕は「ゆたかさ」が増えたとは思えない。
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