思い出の旅 西安·敦煌6日間
その2
2004年8月16日 天気☀
陽関西路を、鳴沙山を友に、西に向かって砂漠の中を走る。敦煌は、鎌倉市と友好関係を結んでいるという。それは平山郁夫さんが鎌倉に住んでることかららしい。平山さんは、毎年この敦煌を訪れるという話であった。
陳さんから「ゴビ」は石と砂が混じった土地、「砂漠」は砂だけ。だから「ゴビ砂漠」と呼ぶのは間違っていると指摘される。
陽関西路を北に折れると道は1車線になる。関所に門番がいて、通行料を払うと道を塞いでいる紐をはずす。ガイドがお金を払っている間に写真を撮ろうと一行がバスから折りた途端、係員が見張りにくる。
1本道のため、車は、行き交う直前に片輪を砂に落として走る。そのタイミングは見事だ。砂の道に辛うじてアスファルトを敷いたという状態で、乗り心地はすこぶる悪い。
その上、おんぼろバスは、砂が入るので窓を開けらず、おまけにエアコンが時々止まってしまうのだ。
道の1kmごとに道標が立っている。気の遠くなる広大な砂漠の中を走っていると、体の中から不思議な感動が生まれてくる。
629年、国禁を犯して長安から西域へ経典を求めて旅に出た玄奘三蔵法師の時代にタイムスリップしたような気分になる。その頃は、ラクダで3か月掛かって長安から敦煌まで来たという。見渡す限りの砂漠の中に立つと、その当時の過酷な旅が、これまでに想像していたものとは比べようもないものだということが実感できる。
河倉城へ行くため、玉門関から東の方へ道なき道を15km程走る。途中、車輌が砂に埋まるのではないかと心配になる。
河倉城は、3つの部屋に分かれていたことが見てとれる。そして、想像以上に広い。今は、サボテンに近い感じのラクダ草が風になびいているだけ。芭蕉の、夏草や兵どもが夢の跡の句が浮かぶ。
来た道を戻る。玉門関を通過し、今度は西に向かって砂漠の道を走る。漢の長城に到着。芦と土を重ねた城壁が所々に残っている。人っ子一人いない。遠くに狼煙台が見えるだけ。
また、来た道を引き返し、今度こそ玉門関へ。やっと玉門関だ!と思っていたら、陳さんから思いがけない言葉を聞く。「玄奘三蔵法師が、見つからないように避けた玉門関はここではない」と。ガイドブックだけではわからない情報だ。
陽関に行く途中、2つほどの村を通る。砂漠の真ん中に突然緑豊かな村が現れ驚く。どの家も葡萄を栽培している。そして、煉瓦造りの小屋で干し葡萄を作っている。
その中の1軒で昼食。食べ物を運んでくる女の子の化粧も顔立ちも今まで会った西安の人とずいぶん違う。食後、葡萄をもらって食べる。美味。バスの中の水分補給なも役立つ。
漢陽の博物館を見学後、陽関跡までいく。
謂城の朝雨、軽塵を潤し、客舎青々、柳色新たなり。君に勧む更に尽くせ一杯の酒。西の方陽関を出ずれば故人なからん。
の碑が建っている。ここまで長い旅を続け、ここから、更に、西域へ旅立つ人の気持ちはいかばかりであったろう。日本から、海を渡ってきた遣唐使の気持ちも同様であったはずだ。どちらも、生きて帰られるかどうか分からない旅だったからだ。
そして、西域から戻り、この陽関が見えたときの気持ちは…。
来る時は感動した砂漠の道も帰る頃には「もう、うんざり」といった有様。途中、たくさんの蜃気楼を見る。砂漠の真ん中に突然湖が見えてくるのだ。きっと、旅人は水を求めてそちらに向かったはずだ。これは「逃げ水」と呼ばれ、近づいてみればただの砂漠というわけだ。
😉ちょっと横道に
玉門関のトイレは有料。1元。
ドアは閉まらず、水は流れず!
昨年の中国の旅の経験から、ペーパーをたくさん用意してきたので、同行の女の子たちの役に立てた。
夕食後、沙州広場をぶらつく。
ここで、おしりのところがパックリと開いたズボンを履いた男の子を見かける。何かで読んだことがある、中国では、こういうものを使用することを。
客が来る前からテーブルにはビールが置いてある。冷やさないで飲むという。果たして、美味しいか…?
私たちは、ホテルの前の店でキンキンに冷えた缶ビールを買って部屋に戻る。
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