術後1週間が過ぎた。まだ、不自由ながら指先を使って作業することができるようになった。そこで、今回のことを忘れないうちに記録しておくことにする。 7月5日、わたしは右手「手根幹症候群」の手術を受けた。 手首から掌の付け根部分の中央に正中神経が通っていて、この神経は横手根靭帯に覆われ、そのトンネル部分が狭くなり、正中神経が圧迫されて神経障害(手指のしびれや母指球筋の筋萎縮による握力障害)が起こるのだそうだ。 小指を除く4本の指にしびれが現れたのは今年の2月に入って
前回、義母の介護について投稿したところ、具体的な困ったことと、そのときどう対応したかについて知りたいと言われたので、今回は、そのことに絞って書いてみる。 「服を探しにいきたい、前にどこかのトイレに置いてきたから。」とありもしないことを言って出掛けようとする。夜、鍵を開けて出ようとする。姿が見えないので捜しまわると、かなりの段差のある所にいたりする。こうして、家に一人で置いておけないことが増えていった。 そこで、買い物に行くときは、一緒に自動車に乗せて出掛けるようにした
雪の舞う空を見ながら、人の記憶はどこまで辿れるのだろうか。ふと、そんなことを思った。 私の強烈に印象に残っている記憶は、映画で見た富士山の噴火の場面だ。たぶん、映画好きの母に連れられて観た映画だったと思う。タイトルもストーリーも覚えていないが、登場人物が弥生時代の風俗だったように思う。富士山の山頂から大きな岩がゴロゴロと下り落ち、煮えたぎる溶岩が麓の村を襲い人々が逃げ惑う恐ろしい情景だった。 その映画を観た日から、私は決まって自分が大きな石や溶岩に追いかけられる
「痛い! いたぁーい!」 今日もまた家中に義母の声が響く。この声を聞くと、私の心臓は縮み上がる。認知症になった義母には昔の面影はない。働き者で、何をするにもきちんとしていた優等生の姿はどこにいってしまったのだろう。 2014年ころから義母の行動に少しずつ気になる行動が目につくようになった。農作業に使う道具や水筒を置き忘れることから始まったように記憶している。その度に、私が義母の行ったであろう所を歩いて探し出す。 義母は花卉を出荷するのを生業としていて、入金の知らせに
2000年7月29日 浜松・豊橋間が集中豪雨のため新幹線が40分程度ストップ。予定を変更して名古屋から「ひかり」に乗り換える。グリーン車からグリーン車だったてのでなんの問題もなく座っていける。新大阪で、ぎりぎり「特急はるか」に間に合う。 関空ではチェックインも何もかも自分たち二人で行う。(添乗員は成田からの便に同乗) アタチュルク空港ではさすがに心配になったが、無事出口までたどり着く。ローマ帝国時代の水道橋や点在するモスクを見ながらホテルに向かう。8時でもまだ十分に明る
その3 2004年8月17日 天気☀ 何の手違いか7人のうちの2人にだけに弁当が付くといった騒動ののち、敦煌空港に到着。他のツアーの日本人客が空港で倒れる。幸いにも、しばらくして、車椅子で移動できるようになる。旅の途中でこういった状態になると本当に困るだろうと他人ながら心配する。(まさか、この後、夫の身に起ころうとは思いもよらなかた…。) 名残惜しい敦煌に別れを告げ、機上の人となる。 西安の空港に着いて、男性ガイドと行き合う。すぐに昼食。偶然にも、昨年食べたレストラ
その2 2004年8月16日 天気☀ 陽関西路を、鳴沙山を友に、西に向かって砂漠の中を走る。敦煌は、鎌倉市と友好関係を結んでいるという。それは平山郁夫さんが鎌倉に住んでることかららしい。平山さんは、毎年この敦煌を訪れるという話であった。 陳さんから「ゴビ」は石と砂が混じった土地、「砂漠」は砂だけ。だから「ゴビ砂漠」と呼ぶのは間違っていると指摘される。 陽関西路を北に折れると道は1車線になる。関所に門番がいて、通行料を払うと道を塞いでいる紐をはずす。ガイドがお金を払ってい
2004年8月14天気☀ お盆の渋滞を予想して10時前に家を出る。11時過ぎに空港の駐車場に到着。レストランで昼食、機内で読むため[幕末·維新]の本を買ってから受付のカウンターへ。出国手続きを済ませ、生ビールを飲んで待つ。 35分遅れで出発。中国東方航空の機内は、エアコンが利かず暑くて参った。 上海で入国審査。SARSを予防するため旅行検疫所で体温チェック。気温32℃。空港内は、エアコンが効いて涼しい。1時間遅れで西安に向かう。 西安の気温25℃。空港は、昨年9月