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介護は続くどこまでも

 「痛い! いたぁーい!」
 今日もまた家中に義母の声が響く。この声を聞くと、私の心臓は縮み上がる。認知症になった義母には昔の面影はない。働き者で、何をするにもきちんとしていた優等生の姿はどこにいってしまったのだろう。

 2014年ころから義母の行動に少しずつ気になる行動が目につくようになった。農作業に使う道具や水筒を置き忘れることから始まったように記憶している。その度に、私が義母の行ったであろう所を歩いて探し出す。
 義母は花卉を出荷するのを生業としていて、入金の知らせに一喜一憂する日々を過ごしていた。出荷するためには日付やら花の名前やらを記入するのだが、日付が定かでなくなり、本数を数えるのに時間がかかるようになり、やがて、自分が出荷するものの名前がわからなくなっていった。
 昔から、義母の畑は草をきれいにとってあることで評判だった。花卉の出荷が今まで通りスムーズにできなくなっても、草取りは相変わらず丁寧にやっていた。しかし、それにも限界が迫っていた。草と、野菜や花の苗の区別がつかなくなり、何でもかんでも抜いてしまうようになった。ある日、夫が「アサギマダラがいっぱい来るところにしたい」と裏庭にフジバカマの苗を植えた。義母に、こ
れは大切な苗であることを言い聞かせた直後、義母は数本を残して抜き取っていた。

 それでもまだこの段階で私たちの日常生活は脅かされることはなかった。私たち夫婦は、同じ年に退職して数年が経過、外孫と内孫3人の子守りと地域の役員の仕事に追われていた。現職中は地域に貢献することが少なかったので、退職してからはできるだけ貢献したいと、役職以外に、月に一度の「ふれあい喫茶」を計画し、何人か協力を得て、順調に滑り出していった。そして、地域の方からの出品をもとに地元の体育館で年に一度「秋のふれあい展」の開催も。

 義母の状態は少しずつ深刻になっていった。パジャマと野良着の区別がつかなくなり、季節にあったものを選べなくなり、靴下が見つからないと紙の袋を足に縛り付けたりするようになった。特に、衣類に対して執着を見せ、部屋中に衣類を広げ、右に左に動かし、最後は放置するようになってきた。
 こんな状態が毎日続き、衣類を別の場所で管理し、その日に着るものを1日分ずつ出すことにした。
 付いていないと入浴もできなくなり、入れ歯の洗浄も歯磨きも指示が必要になった。毎日、下着に便がついていて、洗濯してもきれいにならなくなっていった。用を済ませた後、紙でしっかり拭き取れないのだ。
 冷蔵庫の開け方がわからなくなり、ポットからお湯を出せなくなった。そのくせ、おやつはあるだけ食べてしまい、私が留守をすると、探しだ出して自分の部屋に持っていく。仏様のお菓子を失敬することもあった。

 2017年1月に入り、私は夫に「公的な機関の助けが必要な段階ではないか」と相談を持ちかけた。夫もこのときはすぐ行動に移した。翌日、区役所で介護保険認定の申し込みをすると、2月8日の調査員訪問が決定する。
 
 待ちに待った2月8日、調査員が自宅で義母と面談する。義母はお客様が来たと思い、張り切って、しかも、丁寧に対応する。しかし、日付や自分の年齢が答えられない。それ以外は、ごく普通の対応である。いつもできないことについても、自分できちんとやっていると答えている。
 次に家族との面談。事前に夫と相談して、日頃の義母の様子を記した資料をもとに話す。調査員はこの結果を持ち帰り、会議にかけた。
 そして、ついに、3月2日 認定の通知が届く。「要介護1」という判定だった。その日のうちに、ケアマネージャーと連絡を取り、6日に家庭訪問してくれることになる。
 
 お試しで認知症対応のディサービスを16日に行うことが決定。やっと、事態が動き出すこととなる。
  義母は私たちに「絶対行かない」と言い張ったが、当日よその人のお迎えに、静かに従って車に乗った。
 後日、施設の方がケアマネージャーと共に訪問され、今も通所している施設と利用契約を結び、やっと義母のデイサービスの利用がスタートすることとなっていった。
 
 最初は週に2日の利用であった。慣れてきた7月から週3日に変更する。この間、入浴が大変だったので、入浴用の椅子を世話してもらい、二人でやっと入浴させていたが、週3日通所になって自宅での入浴を止めた。これで私たちの負担がとても楽になった。
 
 1年後、調査員2回目の認定面談をする。今回もまた、夫と二人で義母の状態を記し、調査員にはこれをもとに話す。(これからこのような必要を感じた方はぜひこうしてまとめておくことをお勧めする)
 今回の結果は「要介護3」
 認知症(体が不自由でなくて)だけで介護3になるのは滅多にないとケアマネージャーに教えられる。介護施設に入所する資格は要介護3から。一応、入所の申し込みをしておく。順番がくるのは、何年先か不明だ。
 要介護度が上がり、利用できる点数が増えたが、料金もそれなりに上がる。義母の利用している認知症対応の施設では、手厚い介護を受けられる代わりに利用点数は高い。
 
 2020年7月28日、義母の部屋から悲鳴が聞こえた。腰が痛くてベッドから降りられないのだ。私はすぐ救急車の手配をしようとしたが、夫は救急車を呼ばず自分で病院につれていくという。ところが、近くの病院はあいにくその日整形外科の医師がいないという。仕方がない、少し離れた病院へ連れていく。診察した医師から即入院が告げられる。「動けない人を連れて帰っても大変でしょう」と。翌日告げられた検査結果は「骨折なし」。
 
 8月11日、明日退院という日、義母が夜中に廊下で転んで骨折したと連絡が入る。慌てて病院に駆けつけた私たちに、医師から「大腿骨転子部骨折」であること、手術は17日になることを告げられる。あいにくお盆が入るため、義母は長い間痛みをこらえなければならなかった。

  この日から1か月後、私と夫は病院関係者4人と面談し一日も早い退院を強く希望した。入院している間にさらに認知症が進み、もうこれ以上は待てないといった気持ちになったからだ。しかし、私たち夫婦の申し出は病院にとっては意外なことだったらしい。というのは、認知症患者の家族は長い入院を希望するからだ。

 数日後、9月17・18日にお試しの外泊をして、家族が耐えられるなら、退院を許可するという連絡が入る。私たちはなんとしても退院させたいので、ケアマネージャーに連絡し、協力を依頼する。
 ピックアップ歩行器を使い、なんとか歩けるようになった義母のお試し外泊の日、私たち夫婦は気合いを入れて義母を迎えにいった。その日、叔母や近所の人が義母の様子を見に来てくれ、私は大いに助かった。義母も久しぶりに知った人と話せてにこにこしていた。
 18日にはケアマネージャーが来てくれ、介護のヒントをもらったり、介護用品の希望を聞いてもらったりする。退院の前日の28日、介護用ベッドやそれに伴う付属品、スロープ等が設置される。
  
 10月1日から、今までの通所介護再スタート。病院にいるよりもずっと丁寧な介護のお陰で、義母の表情が明るくなっていく。コロナ禍で面会できず、入院中、病棟が3回も代わり、その度に看護師の対応も変わり、義母にとっては何がなんだかわからない状態であったはずだ。
 
 歩行器がなければ歩けなくなった義母には、今までのように外に出ていってしまう心配はなくなった。しかし、義母の頭の中では自分は歩けると思い込んでいるため、色々な事件が勃発した。一番困ったことは、転がり落ちないようしっかりとガードされたベッドから降りようとして、私たちが気づいたときには片足がベッドにかかったまま、降りるに降りられずぶら下がっていることだった。
 しばらくすると、トイレの場所がわからなくなり、ベッドの上や部屋のあちこちに排尿するようになり、気づくのが遅いと、その臭いは、拭いても拭いてもとれず、ハイター液を薄めて何度も拭き取る必要があった。最終的にオゾンの機械も取り付け常時消臭することにした。
 
 義母の危険を早く察知するために、義母の部屋に小さなカメラを取り付け、スマホやタブレットで状況把握をするようにした。これが、早朝に役立つことが多くなっていった。
 感覚が異常になっていき、爪切りが少しふれただけでも「痛い!」とわめく。トイレットペーパーが手に触れただけで「痛い!」、座っている椅子がちょっと動いただけで「痛い!」というようになる。そのくせ、自分で身体のあちこちにできた湿疹を血が出るまで掻いても痛いとは言わない。
 
 そんなこんなで、私と夫の生活は、義母に振り回わされるようになっていった。  
 この間、デイサービスの担当責任者の方には、紙パンツやパットの種類や詳しい使い方を教えていただいたり、義母だけでなく家族のサポートまでもしていただき、暖かい言葉に何度励まされたことか。
 そして、困ったときにいつも悩みを聞いてもらったり、葬儀ができたからお泊まりをお願いしたいというような突発的なことが起きたときに、すぐにショートステイの手はずを整えてもらったりしたケアマネージャーの存在はとても大きかっ
 また、愚痴を聞いてくれた遠く離れた友人にも感謝したい。たまに、爆発しそうになるわたしを陰で支えてくれた恩人だ。

 もうすぐ97歳の誕生日を迎える義母。今できることは、こぼしながらも小さく切ってやれば箸を使って食事ができること、部屋の近くにあるトイレに自分で行けること。どちらも十分とはいえないが、あの骨折で寝たきりを覚悟した身には上出来と言えよう。
 日々できないことが増え、生活のほとんどに介助を必要としているが、週3日のデイサービスと2泊3日のショートステイの利用が続いている。

 今日も「痛い! いたぁーい!」とわめく声に、私の心臓は縮み上がる。
 下着を下げる、トイレに座る、入れ歯を外すなどのささいなことに、家中に響く声でわめかれると、その声の大きさに、まるで虐待しているかと気分が落ち込むことも。
 
 それでも、介護は続く、どこまでも。

 🙇 
 最後まで読んでくださりありがとうございます。8年の介護は、ここには書ききれないほどの出来事がありました。でも、もっと大変な思いをしている方もいるし、公的支援の受け方がわからなくて困っている方もいるでしょう。参考になることがあれば幸いです。
 

 
 
 


 

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