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助産師やめて後悔はないけれど、悔しさや苦しさは消えない


私は、助産師を3か月でやめた。
今は医療からは完全に離れ、工場勤務をしている。

私が助産師になった理由、やめた理由、工場勤務を続ける理由についてはこちら↓



私は、周りも引くぐらいの強い想いで助産師を目指し、無事助産師になれた。
どんな助産師になりたいか、助産師としてどんな役割を担っていきたいか、そのためには、そこまでに何をすべきか―――
助産師として生きる人生設計を細かく明確に考えていた。

そんな私は、助産師としての自分を生き続けることができなかった。
そして、助産師ではない自分を生きることを、決めた。


この決断に、全く後悔はしていない。
私という人間を生きる上で、助産師は無理だったと、本気でそう思うから。

そして、“来世は、助産師に向いてる人間として生まれて、計画してたような助産師人生を歩むんだ!”と決めているくらいに、今の私は助産師に対して完全に諦めることができている。


助産師をやめてからの生活が割とうまくいっていることもあって、“助産師やめなければよかった”と思ったことは一度もない。
“いつか、もう一度助産師に挑戦したい”と思ったことも、一度もない。






でも。
完全に吹っ切れているわけでもない。
未練がないとは自信を持って言えないな、と思わされることが多々ある。

頭では諦めがついているけれど、
気持ちはついてきてくれてない、
という感じだろうか。





助産学校時代の友だちはもちろん全員助産師で、会う度に聞かせてくれる近況報告は、仕事の話も多い。
本気で心の底から友だちの助産師人生を応援しているから、近況報告が聞けるのはとっても嬉しい。
助産師として嬉しかったこと、充実していること、成長したこと、そういう話を聞くと、私はとても嬉しい気持ちになる。
失敗した話や怒られた話を聞くと、私まで悔しくなったり悲しくなったりする。
でも結果的に、どんな話であろうと、“みんなすごいなぁ”“頑張ってるなぁ”“みんなカッコイイなぁ素敵だなぁ”と思って、幸せな気持ちになる。
そして、応援の気持ちもたくさん湧いてくる。
、、、
それで終わればキレイな話なんだけど。
そうもいかないのが現実で。
やっぱり心の奥底で、モヤモヤしている部分はあって。
言語化できない、怒りとも悲しみとも悔しさともなんか違う、ただひたすらにモヤモヤするものを感じる。



私は、将来的には病院勤務ではなく、助産院や地域で働く助産師になるつもりだった。 
だから、同じような将来を思い描いている人が、積極的に病棟以外の助産師の活動に足を運んでいたり、地域で働く助産師さんたちと会って学んでいる様子を知ると、やっぱり私の心はザワザワしてしまう。
また、実際に私が目指していたような働き方をしている助産師さんが、様々な活動や、考えや思いなどを発信しているSNS等は、あまり見れない。

私は、性教育に興味があり、いつか、なにかの媒体を使ったり、実際に小中高生を相手にして、意味のある性教育をして、性教育について広めていく役割を担いたかった。
だから、性教育などの勉強をしたり研修を受けに行ったりしている人を見ると、やっぱり心がザワザワしてしまう。
そして、最近増えつつある、性教育系のYouTube、その他様々な媒体(ここnoteも含め)。私はそれらを、見ることができない。自分が興味があって、学びたくて、やりたくて、仕方がなかったこと。それらから、距離を取りたくなってしまう。

私は、将来的には、病院での医療介入を前提としたような、医療が中心となっているような、そういう出産ではなくて、医療介入のほとんどない、産婦さんの持つ本来の力を最大限引き出す、自然な出産を介助できる助産師になりたかった。
だから、助産院での自然な出産の体験談などを、聞いたり読んだりすることが苦痛。逃げれるときは逃げてしまう。


私は、「愛されている実感を持てないまま生きていく子どもたちを減らしたい」という想いを根本に、助産師としての人生設計を考えていた。
それは、虐待や子どもの貧困等々、直接的な要因へのアプローチに限らず、性教育、妊娠出産についての知識普及、妊娠期から産後、育児期まで様々な段階でのケアなど、ありとあらゆる方向から、ありとあらゆる人を対象に、直接的にも間接的にもアプローチしていく活動をするつもりだった。
だから今、私は、現在世の中で行われているこのような活動や支援について、行動することどころか、知ることからも逃げてしまう。心の奥底では、全力で応援したい気持ちがフツフツしていて、自分にできることはないか考える自分もいて、でもやっぱりどうしても、向き合いきれないでいる。

ある人に、「前、産婦人科で働いてたんやんな?」と、婦人科領域の内容の相談をしていただいたことがある。
また、他にも、自身の婦人科疾患の既往歴やその治療についてや、妊娠やそれに伴う様々な経験、我が子の幼い頃の病歴など、、、の話を、していただいたことがある。
その度に、“自分が看護学生、助産学生、助産師として生きてきた経験が過去にある”ことを強く深く思い出させられ、“今はそこから離れている”ことを痛感させられる。


今の会社を中途入社している私は、以前なんの仕事をしていたかを聞かれることが多く、
「助産師してました」と言うと、必ず驚かれる。そしてほとんどの確率で、「すごい」「素敵な仕事」などの褒め言葉や、「大変な仕事」などの労いの言葉をいただく。
私はとっっっっても嬉しい。
心の底から素敵だと感じて、憧れたお仕事。勉強したからこそより強くなった尊敬の念。辞めた今の私にとっても、やっぱり憧れる存在。そんな、助産師という職業のことを、褒めていただけたり、労っていただけること、それは、嬉しいなんて言葉では表せないくらいに、とっても嬉しい。なんだかちょっと誇らしかったりする。
でもそれと同時に、“私にはできなかった”という現実を目の当たりにする。
助産師と工場勤務の仕事を、優劣で考えているわけではなくて、向き不向きの問題が大きいこともわかっている。
助産師は「合わなかった」のだけれど、あんなにも憧れて、強く意志を持って、心身ともにすり減らしてやっとの思いで叶えた夢である助産師、そして周りの方々にもこんなにも良い風に言っていただける素敵なお仕事である助産師を、私は「諦めた」んだ、と、なんだか自分のした決断が悔しく、虚しくなってくる。







生きている中で、医療や看護、助産の話題は身近に溢れている。どれだけ距離を取ろうとも、完全に避けることはできない。
誰かが悪いとかじゃないし、多分きっと、私が悪いわけでもない。
ただ、そういう話題に触れることで、私の心がいちいちモヤモヤするという事実は確実にここに存在する。

モヤモヤ自体が苦しい。
モヤモヤしている自分を認識するのも苦しい。
いちいちモヤモヤしてしまっている自分が嫌で仕方がない。
憧れて憧れて、必死になって掴み取った助産師という仕事をできなかった自分に失望する。
そして、悔しい。


私はこの先、今世を生きている限りずーっと、このモヤモヤを抱え、モヤモヤと戦わなければならないのだろうか。

それとも、
いつか、モヤモヤしない自分になれるだろうか。
ちょうど良い距離感を見つけられる日がくるだろうか。







転職してよかったと自分で心から思う。
転職する前の私を知っている友だちも、今の私を見て、「転職してよかったと思う」と言ってくれる。



転職して、助産師をやめて、よかった。
私が生きるために必要な決断だった。
一切悔やんではない。

でもやっぱり、悔しさや苦しさは消えない。

これが現実。












最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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