ゲーリースナイダーを読む2
バイオリージョナリズムと道元
ゲーリースナイダーは1956年から約10年、京都大徳寺で臨済禅の修行に励んだ。以降、1970年以降バイオリージョナリズム運動に関わった。そのバイオリージョナリズム運動について「できるだけ自然の生態系に沿うように、政治的な境界線を引き直すことを要求するものである」と述べている。その知的背景には、アメリカ先住民の文学、中国詩、日本の能、謡曲と並んで仏教、特に道元の思想が影響している。スナイダーは道元から何を学んだのだろうか。
道元(1200〜1253)は曹洞宗を開いた禅僧であり、主著に「正法眼蔵」がある。
道元は18歳で京都・建仁寺の明全の弟子となり6年後には宋(そう 960年-1279年 中国王朝の一つ)に渡る。そこで天童山景徳寺の如浄(にょじょう)禅師の下に参禅し悟りに達した。その悟った時の言葉が「心身脱落」。
道元が解釈した「心身脱落」が意味するところは「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」。
自我とは、他の誰とも異なる「個体」としての性格が付与され、それは他人と区別を同時に合意する考え方で、西洋近世の17世紀から18世紀哲学にて形成された。それ以降の西洋の市民社会における人間存在の基本形式とされてきた。
それは、自分を中心に、そして自分の判断を物差しとして他者または物を認識し理解する、つまりは他者や物を対象化し認識することになる。
それが長らく人間と自然とを分離する考えになっていたのだろう。
では、「自我意識を無くす」とはどういうことであろうか。自我を角砂糖に例えた話によると、自分と他人との接触は、角砂糖同士のぶつかり合い、すると角砂糖は傷つき崩れます。人は自我を維持するために修復しようとする、それが人の苦しみだったりする。だからそんな修復をやめて角砂糖は湯の中に溶け込ませてしまえば良いだろうというのが心身脱落。それは自己の喪失ではない、角砂糖という形は無くなっても湯の中で溶け込んでいるから自己が消えているのではない。それは自我を超えた世界、主観・客観の分別を超えて、一切をあるがままに知見する状態なのかもしれない。
また、仏教語の一つ「一切衆生」、「一切」はすべてのもの、「衆生」はすべての生きるもので、道元は「山水経」の巻で「一切は衆生なり」と解釈している。「一切の衆生」と読めば、衆生は生き物だけになってしまうが、「一切は衆生」と読むことで、人も、山も、水もすべてが衆生なのだ、生き物だという。
スナイダーは、道元を自然に対する深い感性を有する詩人、僧侶としてみるのではなく、自然の働きに対して深く際立った洞察力のある人として見ている。
人と自然との分離、物(自然)を対象化した認識は人間の世界でしか通用しない。
ブルーノ・ラトゥールは、人は地球環境に依存しなければならないことに気づくべきと述べている。
地球環境は、偶然に生み出された生命プロセスの継続により、人間を含む多くの動植物にとって生存可能な環境が生み出された。
だからこそ生態系と人間の新しい関係を模索しながら、あるべき人間像を追求していくことが必要になっていくのだろう。
参考文献
道元 正法眼蔵 分からないことがわかるということが悟り ひろちさや著
道元の自然観 華園 聰麿