劣等感と標準化の話
こどもなりに感じていた劣等感
突然ですが、わたしは1月生まれです。
小学3年生くらいまでは成績も物覚えも悪く、こどもながらに「なんで皆ができることがわたしには上手にできないんだろう」と思っていました。4月生まれの子と並んだら体が小さく、今はふくふくしているのですが生理が始まるまでは痩せていてカリカリでした。
授業中に九九を覚えてテストに合格した子から帰れるときも、最後から数えるほうが早かったですし、分数の四則演算がちんぷんかんぷんで、何日も居残りして教えてもらったことを今でも覚えています。
記憶力も悪く、集中力も注意力も低かったです。幼稚園のときクラス別に並んで歩いて公園に行くことがあったのですが、気付いたら別のクラスの知らない子たちの中にいました。方向感覚も乏しく、下校中猫を追いかけて行ったことのない方向に寄り道をしたら家に帰れなくなったこともありました。出先に忘れ物をすることもしょっちゅうでした。買ってもらったばかりのピンクのゲームボーイポケットを公園に忘れて帰って、「なかったらどうしよう」と泣きながら取りに行ったことは、幼稚園児のことなのにはっきり覚えています。
そういった経験の反復で、いつの間にか「他の子みたいにできない」という劣等感が心にぺとりと貼り付いていました。その劣等感は、ある程度成長が同級生に追いついた小学校高学年まで続きます。
友だちの甥っ子
友だち(Rちゃん)の妹のご主人の連れ子ちゃんが少し発育が遅いようで、Rちゃんからたびたび話を聞いていました。多動の気もあって、他の子と同じようにはできないから心配していました。
今年の4月に小学校に入学した6歳児なのですが、やはりトラブルが多いようです。忘れ物が多い,授業中席にそわそわしてしまう,先生の話を集中して聞けない…。学校から妹ちゃんへ、何度か電話がかかってきたと言っていました。
障害があるかもしれないが、個性かもしれない。3月生まれなので他の子より幼いことが一因かもしれない。いろんなことが複合的に絡まりあっているかもしれない。妹ちゃんは、こどもがどうやら他の子と違うということに悩みつつも、その事実を受け入れられていないようでした。
20歳までに人並みになれたら上出来やんか
これはRちゃんのセリフなのですが、このセリフが、劣等感でしょんぼりしていた幼い日のわたしを救ってくれました。
Rちゃんは大阪生まれ大阪育ちのバリバリの関西人で、めっちゃ関西弁なんです。笑
Rちゃんは言いました。「こどもの1年てデカいやん。生まれてからのゼロスタートやねんから。そりゃ6歳児やと個人差デカいて。わたしも今でこそある程度社交性あるけど、高校くらいまで他人と関わるのめっちゃ苦手やったもん。でも経験が増えて、知識が増えて、人のマネをして、20歳半ばでやっと他の人より少し苦手くらいかなって思えるとこまでこれてん。自立せなあかん頃に、生きていくのに困らん程度にできるようになったらええねん。20歳までに人並みになれたら上出来やんか。」と。
同じようなことを、専門時代に実習に行かせてもらった開業医の先生も仰っていました。わたしは萎縮すると、普段簡単にできることができなくなったりミスが増えてしまったりするのですが、それを見ていたのか、「人にはそれぞれペースとか吸収のスピードがありますからね。要領が良くて3日である程度できるようになる人と、3ヶ月かけて少しづつ吸収していく人と。でも真面目に努力していれば半年後には2人とも同じくらいできるようになっているんですよ。そういうものですし、それで良いんですよ。」と言ってくださいました。その時はあんまりぴんときていなくて、「優しい人だなぁ」とぼんやり思っていました。
皆と同じでいたかった
国語が得意でした。作文が得意でした。好奇心が強く、活発な子でした。人前で堂々としている、声が大きくてハキハキしている、と褒めてもらいました。わたしは「よくできること」と「苦手でできないこと」の差がとても大きなこどもでした。良くも悪くも人目に付くこどもだったと思います。
できないこと、苦手なことがありました。人よりできることがありました。人と同じくらいじゃないから、皆と同じようになりたかったです。褒めてほしいけど、目立ちたい訳じゃない。かまってほしいけど、注目されたい訳じゃない。成長の速度も、生まれ持った性格も、得手不得手も、人それぞれ違うなんて当たり前なのに、中央値から離れてしまうことの多かったわたしは「よくできる」ことも「人よりできない」こともコンプレックスでした。
あの日の劣等感の昇華
Rちゃんの「20歳までに人並みになれば上出来」という言葉で、かつてのわたしは救われました。そっか、長期スパンで考えたら良かったんだ、と思えました。あのときは1番だったことも、あのときは誰よりできなかったことも、今ではどちらも中央値からそう離れていません。なりたかった人並みに、今はなれています。
わたしには、「心の中にいるあの時のわたし」が何人かいて、その子たちは普段は身を潜めているのですが、ふとしたきっかけでぴょっこりと顔を出します。悲しかったわたし、悔やんでいるわたし、納得できなかったわたし、傷ついたわたし、褒めて欲しかったわたし…。
そしてその子たちは今回のように、もう20年以上も経った今になって、ふとしたことで成仏するみたいに消えていくことがあります。「あ、いいんだ。」と、救われたような、納得したような、許されたような気持になると、あの日のわたしがキラキラ光って、サラサラと光になって消えていくのです。
生まれ持ったもの
能力も感性も、家庭環境や人間関係の中で培われていくものだと思います。ただ、持って生まれたものも大きいんじゃないかなとも思います。
わたしは今でも地図を読んだり道順を覚えたりすることが苦手です。引っ越したての頃はGoogleマップを使って家に帰っていました。ショッピングモールの駐車場で停めた場所が分からなくなって、半泣きで探し回ったりもします。
今はだいぶ減りましたが置き忘れはまだあって、財布を無くしたりスマホをなくしたり、おみやげどうぞって頂いた紙袋をそのまま忘れてきたりと、なんとかなっていますが今でも低いままの能力もあります。
困ることはあるけれど、でもまあ生活はできています。人よりちょっとうかつだけれど、お金を稼いで自分で生きていられています。楽しくない日もあるけれど人生は良いものだと思えているし、友だちにもパートナーにも恵まれました。うん。上出来。
障害か個性か
わたしは特に病名がつかずに大人になったわけですが、悩んで病院を受診していたらADHDの診断が下りていたかもしれません。障害か個性かは、「当事者が社会で生きる上で深刻に困っているか」だと思います。
親戚に他者とのコミュニケーションが苦手な子がいます。「少し変わった子」「ちょっと難しい子」ではあるものの特に特別学級に通うこともなく専門学校まで卒業しました。無事就職したのですが馴染めず早期退職し、2年ほど実家で過ごしながらハローワークに通いつつ職業訓練や就職活動をする中で、やんわりと診断を受けることを勧められたそうです。
病名がつくと”障害者枠”で採用してもらえます。配慮が必要であると分かったうえでコミュニケーションを取ってもらえます。会話が苦手ですが文書でのコミュニケーションをは円滑に行えるため、メールやチャットで指示をもらっているそうです。
”障害”はその個人にあるのではないと思います。その人と社会の間になにか隔たりになるものが障害なのであって、そのせいで生き辛いのであれば、分かりやすく病名をもらって配慮してもらうほうが効率的だとわたしは思います。標準を目指して苦しむ必要なんてない。ちょっと工夫すれば楽しく生きられるのならその方がいいじゃない、と。
終わりに
「劣等感」とか「生き辛さ」って、やっぱりまだまだ自分の中にあるし、全部が全部綺麗さっぱりなくなることはないと思います。たぶんそれらもわたしを形作る一つだと思うし。でも、考えることとか人と関わることとか経験することとか、もがいたりあがいたりすることをやめなければ良い変化はいつかきっと訪れます。
「死にたい」って思ったことはないけど、「消えてなくなりたいなぁ」と思ったことはあります。そういうときは、ちりばめられた幸福をひとつずつ拾って集めるように、短期スパンで生きてきました。友だちと美味しいものを食べる予定、後輩ちゃんと温泉旅行する予定、好きな漫画の発売日、楽しみにしているラジオの更新日。楽しいこととか嬉しい気持ちとかを大切に抱きしめて生きてきました。「とりあえず旅行行くまでは生きていこ~」と。
今は「消えてなくなりたい」ほどの気持ちを感じることはなくなりました。人間関係を選べるようになったし、仕事も比較的フレキシブルに働かせてもらえているからだと思います。こうやって気持ちを文章にしてアウトプットできて、それを誰かに読んでもらえていることも大きいかも。
なんだかとりとめのない話になってしまいましたね。いつのことなんですけど。ここまで読んでくださってありがとうございました。誰かの心にそっと寄り添えたらうれしいな。それでは。