子どもを捨ててしまえ
先日のシンポジウムの日本思想の先生のご発表。
日本霊異記に出てくる僧の行基の逸話から。
大僧行基の話を聞こうとたくさんの人が集まった中に、子供を抱えたお母さんがいたそうです。子どもと言ってももう小学校高学年になろうとする年頃、自分で立つこともできずお母さんにしがみつき抱きかかえられて喚く泣く叫ぶ暴れる、お母さんもう困りきっている。困り切って大僧に救われようと話を聞きに来たのです。
そのお母さんに行基はこう言った。
「その子どもを連れて出て海に捨ててしまえ」
あまりのことに凍りつく人々。
いくら偉い高僧の言葉だとは言えそのお母さんもさすがに子どもを捨てられなかった。だって自分の子どもなんだから。いくら困り果てても捨てるなんてできない。
そのお母さんはまた行基の話を聞きに行ったそうです。そしてまた。
その3回目、叫び泣き暴れる子どもを抱いて救ってもらいたいと来ているお母さんに行基はまたこう言った。
「連れて行って海に捨ててしまえ」。
そのお母さん、ついに子どもを海に投げ落としたんだそうです。
…
これを聞いていろんなことを考えることと思います。わたしも考えました。
自分の子ども、自分の生徒は「自分の」子どもなんです。
でもそれが全ての大間違いなんだと思います。
賢い人も愚かな人も、「自分の」子ども「自分の」生徒と思い込むところに全ての迷いと病があるのではないでしょうか。
この子どもを捨てるというのは、「自分の子ども」を捨てるということ、
「自分の子ども」と思い込むその思い込み、「自分の子ども」というその自分自身の執着を捨てる、ということなのではないでしょうか。
「自分の子ども」だからかわいい、「自分の子ども」だから自分がどうにかしないといけない/どうにかしたい、というのは、
実は自分とは違う人間である=「他者」である相手を「自分のモノ」にしてしまっているのではないか。
その相手の持つ(誰もが持つ)本来の他者性を、
「自分の子ども」という思いが覆い隠して見えなくさせてしまったのではないか。
「自分の子ども」は自分のモノではありません。
別の人間なんです。
「自分の子ども」だけではありません。「自分の夫」「自分の会社」「自分の親」「自分の部下」「自分の同僚」「自分の敵」…
もし、目の前にいる人間が、自分とは違う「別の人間」だと分かり、
自分のものではなくても大切であるべき別の「人間」であることが分かったら、
おそらくそのことは私たちに「別の接し方」「別の関係性」を探させるでしょう。
自分がどう接するのが「良い」のか、
自分はどういう関係性を持つべきなのか、
別の人間に対してそう考えようとすることを
「自立」と言うのだと思います。
…
わたしができているとか、うちの親ができていたとはまさか思いませんが、
それが親の病の鍵なのだということだけはわかります。
…
捨ててしまえ。
…
…
と書いていたら、友人のコサカさん(半分お坊さんの学校の先生)からお返事が来ました。
以下はコサカさんとわたしのおしゃべり。
コ(コサカさん): クラス担任制をなくしてみるなんて動きがあるのも「学級王国」を廃して、「自分の」を薄めることなのかなぁと思えてきました。
まだ「自分の学年」「自分の学校」があるにせよ。
サ(わたし): その通りですよね。人間って、「自分の」っていうのにも迷うし、「生徒」とか「子ども」っていう言葉にも迷う。「親」や「教師」っていう言葉にも迷う。それで囲い込んだり競争したり頑張らせたり変にケアしたりするのって、ただ自分が迷ってるだけなんですよね。
コ: 煩悩だらけの無明の状態ってやつですね。自分で落ちこんでいても気づけない…。
だから、人と対話する(異なるナラティブ(考え)にふれる?)ことが大事なのかとも。
サ: 同じような考え、みんなそう言うから、っていう同質のナラティブの中に人は閉じがちで、異質なナラティブに出て行こうとする人は少ないですよね。
対話だったら異質なナラティブがカジュアルに偶発するんですけど、
だからまた対話が嫌われちゃう。
摩擦や対立がない「おしゃべり」は居心地がいいかもしれないけど窓が開くこともないから息苦しい。
異質なナラティブ(まさにこの逸話もそうですが)に触れると傷ついたり怒ったりする人もいると思いますが、
でもそれもまた交差ですからね、本当は行き先がわからないまま歩いている旅人同士の。傷ついたり怒ったりしてもそれでいいんだと思うんですよね。