責任ってどんなこと?

以前、異分野(日本文学専攻)の学生に卒論指導を頼まれて、それができない大学のシステムをどうにかやりくりして引き受けたことがあります。

テーマは「なぜ芭蕉は赤子を置き去りにしたのか」

松尾芭蕉は全国を旅して歌を詠んだのですがその途中、大井川に差し掛かりました。越すに越されぬ大井川、橋もなく流れも急な東海道の難所で馬に乗って渡るか川越人足の荷台に乗って渡るかしかなかった、それでも命を落とすこともあった、雨が降ったら増水して何日も川止めをなることもあった場所です。その川を超えたところで芭蕉は子供の泣き声に気づきます。見ると小さないたいけな子どもが捨てられて泣いていたのでした。自分がこれを見殺しにして通り過ぎたらこの子供はもう明日まで命がもつまい。
そう思いながら芭蕉はそのまま通り過ぎて大阪に向かったのです。

それが理解できない、とその学生は言うのでした。
芭蕉がそんなことをする人だとは思えない。それなのに芭蕉は子供を見殺しにした。それがなぜなのかどうしても理解したい。この「どうしても」を彼は卒論にしたのでした。

彼は頑張ってたくさん読んでたくさん調べてたくさん考えて毎回毎回なにかの仮説を持ってくるのです。
で、毎回毎回わたしに全否定されてしまう。だってそうは思えないんだもん。だって違うと思うんだもん。

🧑‍🎓さっちゃんって否定しかしないよね。
(…って疲れ果てて溜息をつきながら彼は言うのでした。)
👩だって合ってるって思えないんだもん。だって、こうでしょ?ああでしょ?ほらね!間違ってる!
🧑‍🎓さっちゃんって、間違いは指摘するけど、じゃあこうだ、っていうのは言ってくれないよね。。
👩だってわかんないんだもん笑
🧑‍🎓わかんないくせに否定だけはするんだ。
👩だって間違ってるっていうのはわかるんだもん。

そのときに私も彼からいっぱい先行研究を読まされて、芭蕉の句集もいっぱい読まされて、芭蕉って面白いなぁと思いました。
芭蕉って人間なんですよね。わかる😢

👩芭蕉って面白いね✨ 芭蕉好き✨
🧑‍🎓…  

卒論はA+(S評価)でした。




思うに、本当に責任を「持つこと」は、一見無責任に「見えること」なのかもしれません。

世の中の人たちが責任を持つフリをするのは、そうしないと自分が責められるから。
でも本当に責任を持つというのは、自分が他人から責められることも自分で自分を責める自責もきれいに捨てて、
ただ自由でいることなのではないかと思います。

「誰かに対する責任」「何かに対する責任」というのは本当の責任ではありません。それは「役割」でしかない。「役割だからする」というのは責任でもなんでもない、ただ自分が世間から弾かれないための、世間で生きていくための、ミスギヨスギ、辛い世渡り術でしかありません。

本当に責任を持つというのは、こうした特定の役割からも自由であることではないでしょうか?

特定の役割から自由であるというのはその役割から逃げることではありません。むしろ全ての役割から逃げないでいようとすること、全ての前に立とうとすることなのではないでしょうか?

役割からも自由であること。
自由に、ただ全面的に自分であること。
特定の役割ではなく、全ての場においてただ全面的に自分を生きようとすること。

責任って重くて、軽いんですよね😊

いや、軽くて重いのか?

いや、軽いのか!笑



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