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一つの鞄から見えたこと
服や鞄など、身につけるものを買う瞬間が好きだ。
色は、機能性は、質感は。心惹かれるデザインか、そしてその価格は私の見出す価値に釣り合っているか。そうあらゆる角度から吟味し、いい買いものをしたと思えるものを手に入れたときは、晴れやかな気持ちになる。
しかし、大抵のものは手に入れたその日がときめきのピーク。時間の経過とともに、その気持ちは緩やかに下降してゆく。かつて、心惹かれたものも時間が経つと部屋の片隅に眠る。そしてまた新たなときめきを探しにゆく。「ものを買うこと」とはそのくり返しだと長年思っていた。
けれど最近、その概念をひっくり返す鞄に出会った。
使っていた鞄が痛んできたから新しいものを探しに出かけたときのことだ。好きな色の鞄が並んでいたので、何気なくある店に足を踏み入れた。使い心地はどうかと肩にかけてみたり、ポケットの機能性を確かめたりしてなかなかいい鞄だなと思い、値札を探した。生憎、記載されていた価格は予算をかなりオーバーしている。そっと棚に戻そうとしたとき、にこやかに店員さんが近づいてきた。
「いいお色味ですよね」
から始まり、商品の一押しポイントをつらつらと挙げるお決まりのセールストークが続く。しばらくすると、
「お店の理念はご存知ですか」
と尋ねられた。理念?少し驚いて首を振る。
そのお店もとい、MOTHER HOUSE(マザーハウス)という会社は、「途上国から世界に通用するブランドをつくる」ことを志して展開しているのだという。
「途上国」とひとくくりにされがちな場所で、その国や地域ごとの魅力ある素材に光を当て、誇りある職人の技術を活かし、良いものを形にするために現地の働く環境を整えること。
目の前の鞄は、そんな取り組みの中、バングラデシュでできたものらしい。
それらの店員さんの話には興味がわいた。しかし、買おうとしていた鞄は一張羅のワンピースに合わせて使うものではなく、パソコンや本など、どさどさと多くの荷物を放り込んで、日常使いする用の鞄だ。使用頻度が高いだけに、きっと痛むのも早いだろう。予算数万円オーバーの鞄を買うのは、はばかられ、気になりつつも買わずに他も見てみようとお店を後にした。
数日後、書店にて帯に 途上国発人気ブランド「マザーハウス」社長の夢をかなえる思考術 と書かれた本が目に飛び込んできた。
表紙には私より少し年代が上であろう、こちらを真っすぐに見つめる女性。マザーハウスの創業者であり、デザイナーでもある山口絵理子さんだった。先日鞄を見ていたお店の社長さん、女性だったのか…導かれるように手に取り、ページをめくった。
著書の中で「マザーハウス」の立ち上げにあたり、やりたいことを見つける段階で、
「わたしはビジネスの世界を見たくて大規模工場を訪れて、大量生産っていうものが生み出している構造を垣間見た。こうやって先進国は途上国を生産拠点にして、安いモノをより安く作っている。でもその背景では安い人件費をより安く、安い原材料をより買い叩くことで、それが実現されているんだと知った。」
ということばがあった。
確かに世間を見渡してみると、低コストで大量生産される「ファストファッション」と呼ばれる類のものたちが溢れている。わたしもそういったものをついつい買ってしまうので、使いやすくてより安いものを求める心理は十分理解できる。
けれど、そうやって多くの人がより安い物を手に取ろうとする裏側で、世界のどこかで労働に見合わない取引がなされていることもまた事実なのだ。
安い人件費で作られた製品を買うということは、ある意味、そんなつもりがなくても労働の搾取に加担していることになるのかもしれない。わたしたちが身につけるものはどこからやってくるのか。それは見ようとしなければ、見えてこない事実だ。
読み進める中で、わたしは学生時代に世界史の授業の一環で公正な価格で取引する「フェアトレード」について学んだことを思い出した。その講義では、教授が用意した南北の貧富の差についての文献を読み、カカオ農園について特集されたドキュメンタリーを見た。カカオ農園で働く少年が、大きな瞳を曇らせて「毎日カカオを運んでいるけど、ぼくはチョコレートを食べたことはないんだ」と話す姿が記憶にこびりついた。
その講義を受けてしばらくしてから、お洒落な雑貨屋さんでたまたま「フェアトレード」という文字の躍る板チョコレートを見つけ、思わず購入した。スーパーに売っている板チョコと殆ど大きさは変わらないのに、700円はしたはずだ。
素敵なイラストが施されたパッケージ、ナッツのような香ばしい風味のある美味しいチョコレート。いいことをしたな、とそのときは一時の自己満足に浸った。しかし、恥ずかしながら購入したのはその一度きり。
スーパーやコンビニには1枚100円ちょっとの美味しいチョコレートが数多く並んでいる。わたしの中でその価格が当たり前になっていて、やはり700円のチョコレートは高いと感じてしまったのだった。
今思えばどこか無意識的に、恵まれない地域の人のためにフェアトレードの製品を「買ってあげる」という思いを抱いていたのだと思う。
他にも著書の中で、山口絵理子さんは現地の工場を見学したり、フェアトレードの製品を見たりする現場の感覚から、
「途上国の人たちは、安いものしかつくれないわけじゃない。かわいそうだから買ってあげる商品しかつくれないわけじゃない。本当にかわいいな、かっこいいな、って思えるような商品だって、きっと作れるんじゃないかなあ」という気持ちを抱いたと記されていた。そしてこれが「マザーハウス」を立ち上げようと思った一番大きな主観だとも。
そう、わたしは「途上国で作られた」からこの鞄をいいな、と思ったわけじゃない。色やデザインを見て、素敵だなと手を伸ばしたのだ。しかも、それがたまたま生産者やその国のことを考えて作られた製品だったということ。
著書には、たくさんの苦労やピンチを柔軟な思考や想いによって乗り越え、今の形になっていったことが記されていた。読みながら、思わず何度も背筋が伸び、胸が熱くなってしまった。
そしてもう一度、あの鞄をじっくり見てみようとわたしは再び「マザーハウス」の店に足を運んだ。前回とはまた違う店員さんが接客してくれたが、その方も理念に触れながら説明してくれた。いきいきと語る様から、製品を愛する気持ちが伝わってきて、きっとこのブランドに誇りを持って販売しているのだなと感じられた。
わたしはそれなりの値段がするものを買う際に、必ず自分に課していることがある。使っている自分の姿やそのときの感情にイメージを膨らませてみること。そこでほわっと心の体温が上がるかどうかで、本当に買うのかを検討する。
肩にかけ、鏡の前に立ってみた。
持ち手を変えることでリュックにも肩掛け鞄にもなる個性的な形。
遠い沖のように落ち着いた包容力のある深緑。
シックな装いにもカジュアルな装いにもしっくり馴染みそうな洗練されたデザイン。
そして何より、この鞄が生み出されたストーリー。それらを手にすることで、遠い異国の発展を促し、誰かの笑顔に連鎖するということ。
そうか、ものを買うということは物欲を満たすただの消費活動だけではなくて、世界と繋がることでもあるのか。そう改めて気付いた。
鞄を肩にかけたわたしを見て、ふと脳裏に浮かんだのはこれから愛用する近い未来だけではなく、その先も共に過ごしている未来だった。この鞄はきっと10年後のわたしの通勤やお出かけにも彩りを添えているに違いない。身に付けるものを買うときに、そんな未来のイメージまで描けたのはこのときが初めてだった。この鞄は、きっと長く使ってもときめきが色褪せない、そんな予感がした。「買わない」という選択肢は、もはやとっくに消え去っていた。
そして購入した際、「マザーハウス」の商品は、補修や手入れのアフターサービスが充実していることも教えてもらった。わたしが今回購入したのは革製品の鞄なので、経年劣化してしまう数年後にお店に持って行ってクリームを塗るひと手間加えてもらうと、また滑らかな風合いが蘇るという。
壊れたり痛んだりするとすぐに手放すのではなく、長く愛用することを前提としていることを知り、より一層うれしくなった。
このお買い物を機に、買おうとするものが好みかどうかという目に見える価値だけではなく、その背景の取り組みや想いもふまえて選ぶ、という視点が加わった。
「何を買うか」という小さな選択が、望む世界の一助となる。
それはわたしが「マザーハウス」という会社に教えてもらったことだ。