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短編小説:どんじり

蒔絵が結婚することになった。

蒔絵というのは僕の姉だ。僕よりひとつ上の今年三十一歳。

普段は幼稚園教諭をしている、僕らきょうだいの育った街の丘の上にある学校法人さくらのてんし幼稚園、今はさくらのてんしこども園という名前になったらしいが、短大を卒業してからそこでずっと働いている。去年勤続十年で最初の「勤続十年賞」を貰った。

中高とバスケ部だった蒔絵は背が高く、手足が長く、弟の自分には一体その容姿がうつくしいのかそうでないのか、ちょっと判断がつきかねるが、僕の周囲の人達に言わせると「相当きれいやぞ」ということらしい。しかし仕事中はいつも長い髪を編み込みの三つ編みにして、顔には何の色ものせず、塗っているのはせいぜい日焼け止め、着ているものはGUのスウェットパンツに一枚九九〇円のTシャツ、その上から絵本かディズニーのキャラクターのついたエプロンをしている。しろくまちゃんとか、黄色い猫とかあとは、陽気なねずみ。二十代の最初は、実家から職場に通っていたが、今は職場から私鉄で三駅離れた隣町に小さな部屋を借りてそこで暮らしている。

蒔絵の部屋には僕も何度か行ったことがある。築年数は十年超、特段新しくもないが、管理と手入れの行き届いた賃貸マンションの、二階の角部屋で、小さなキッチンとバストイレ、ワンルームとしてはかなり奥行きのあるクローゼットは蒔絵のこだわりらしい。日当たりの良い八畳ほどのフローリングの部屋の壁一面には、「せんせえだいすき」「いしょにあそんでくれてありがと」「えんそくたのしかたね」という誤字が多めの『お手紙』と、蒔絵と子ども達、それからその子らの保護者が笑顔で映るスナップ写真が張られている。多分良い先生なのだと思う。子どもに好かれている、保護者からの信頼も厚い、天使と聖母のレリーフを門扉の上に掲げたさくらのてんし幼稚園でいちばんすてきな、いちばん優しい吉見蒔絵先生。

しかし、僕は蒔絵にそんな慈愛に満ちた聖母的優しさを感じたことは一度もない。蒔絵は基本的に粗暴で横暴で乱暴な人間だ。

蒔絵の小学生時代のあだ名は地獄の番犬であり、女ターミネーターであり、アマゾネスだった。「殺すぞ」とか「死にたいんか」とか「うんこやな」を挨拶代わりに使うガラの悪さ。驚くほど喧嘩っ早く、先制の拳は一秒の躊躇も留保もなく相手の顔面めがけてブチ込まれる。小学校時代はクラスの男子全員を腕力でねじ伏せ、男子と女子の体格と体力にある程度差の出てくる中学時代は口の端から息をするように出てくる暴言を駆使することで、体育館裏に集うやや素行の良くない生徒達にも「アイツはヤバイ」と、一目置かれていた。

お陰で、生まれつき不器用で生活全般が不得手であり、身体の動きが酷く緩慢な僕は、校区外の人間から「ゴッサムシティ」と呼ばれる地域の公立小中学校に通ってはいたものの、特にいじめられたり、素行不良の同級生に絡まれたりすることなく、比較的安寧な学校生活を送ることができていた。

仮に、校内で制服を着崩した金髪が僕の不器用な体の動きをからかったり、緩慢さに付け込んで面白半分に僕の頭上にチョークの粉を振りかけたりしても、それを見た誰かが慌てて耳打ちをしに来る。

「オイ、やめとけ、ソイツ吉見蒔絵の弟やぞ」
「エッ、あの…?」
「せやで、あとコイツのんびりしてんのは動きだけで、アタマはええんや、告げ口されんで」
「あの、えっと、これ冗談やからな、ウン。ちょっとふざけただけや、その…なんかあれやな、オマエあんま姉ちゃんに似てへんなァ」

すると相手は大体しゅるしゅると、梅雨に湿気た花火のように勢いを無くし、僕の頭に降り積もった白い粉を丁寧に叩いて、「ごめんな」と言いながら、ぺこぺこ頭を下げて僕から去ってゆく。

子ども時代を暴力的な姉・蒔絵の庇護の元で過ごした僕は、いじめやからかいの標的になることなく、理不尽に厳しい体育教師さえも僕には強く出てこなかった。しかし蒔絵が弟の僕にとても優しい姉だったのかと言われると、別にそういうことはなかったと思う。

まず、僕は普段蒔絵から本来の名前である伊織ではなく「どんじり」と呼ばれていた。動きがのろく、すべてにおいて愚図だからだ。家ではしょっちゅうタンパク質を中心とした夕飯のおかずなどを蒔絵に強奪されていたし、おやつの菓子類もまたしかり。機嫌が悪いと小突かれ、機嫌が良くても座布団がわりに尻で潰されていた。きょうだい喧嘩は勝負にならないので、これまで一度もしたことがない。

ともかく蒔絵は外でも家でも、ともかく僕の存在する世界においては、森羅万象上の女王として、僕の遥か高みに君臨していたのだった。

子どもの頃、まだ母が離婚していない時期の僕らは、学区の端にある古いUR団地に住んでいた。窓から観覧車の見えるその部屋を僕は割と好きだったが、蒔絵はよく「こんなところは嫌や」と言っていた。

「なんぼ頼んでもひとつも乗せてもらえんモンが、窓からずーっと見えるて、無駄にムカつくと思えへん?」

観覧車は僕にとってただの風景なので、蒔絵のその感性はよく分からなかったが、ともかく蒔絵は眼前にいつも存在しているのにひとつも乗ることのできない観覧車に腹を立てていた。そして部屋には夏場よく階段や壁を伝ってアリが遊びに来た、そのことも蒔絵は嫌だったらしい。

母は美容師で、僕が小学校低学年の頃は商店街の小さな美容室でパートタイム勤務をしていたが、僕と蒔絵がそれぞれ小三と小六の時、夕方から晩にかけてキャバクラや、クラブに勤める女の子のヘアメイクや着付けをする店にもパートに出るようになった。僕らの世話には母の母、つまり僕らの祖母が駆り出された。朝から晩まで、土日もひたむきに働く母には、自宅の窓から見える観覧車のある場所に僕らを連れてゆく暇はなかった。

父は僕が記憶している限り一体何をしている人なのかよく分からない人だった。職業不詳、そのくせ湯水のように金を使うといういささかたまらない人間で、趣味はパチンコ、夢は一攫千金。

「そらだってオマエ、伊織の将来のために金がいるやろが、あんなポンコツ、将来どうするねや」

これが父の常套句で、それを言う時は大体纏まった現金を自宅から持ち出す時だった。投資だとか、先物取引だとか、あとは友人との胡散臭い事業の共同経営。そのどれもは大体が面白いほど不発で失敗、毎度相当額の損益を出した。母がせっせと夜に曽根崎界隈のお姉さん達の髪を巻き、美しく結い上げて稼いだお金は母の口座に入るそばから消え、貯金はたちまち底をついた。そうなると母も明日の生活費をそう簡単に父に渡す訳にいかない、父の要求する金額を渡す事を渋るようになる。父は母を恫喝した。

「ええから出せ、あるんやろ金、どっかにちょっとくらい」
「この家のどこにアンタに渡す金があるねんな!」

父に母が余分な金はひとつも無いと、それこそ財布を逆さに振って見せると、父は母のことを平手で殴った。しかし相手はあの蒔絵を産んで育てた母だ、父の平手打ちごときに屈する訳がない。母は父よりも一回り小さな体で、ラグビー選手のようなタックルを繰り出して父に応戦、時にはそのまま父を家から押し出していた。

母との金銭を巡る攻防に敗退した父は母の仕事中、僕と蒔絵が留守番している間に家の中をほじくり返すようになった。こうなるともう父親なんかではない、ただの顔見知りの泥棒だ。

蒔絵は、この父のことを徹底的に嫌っていた。

「オイ、蒔絵、ママの通帳どこや」
「しらん、ていうかこの家にもうお金なんかないわ、自分であんだけ使うといて分かってないて、アホか」
「そ、そしたらなァ、オマエお年玉とか貯めてるやろ、ちょっと貸してくれ、今あの株買うたら絶対に上がるんや、あとは伊織のほれ、役所から貰うた金、あのゆうちょ銀行のヤツなら、結構貯まってるんちゃうんか?」
「ハァ?子どもからむしり取る気か?とんでもない男やな、もうあんたなんかいらんわ、どっかで野垂れ死だらええ、出てけやこのクソジジイ」
「クソジジイとはなんや、父親に向って」

この時、蒔絵は家の玄関で父と「金出せ」「ない、帰れ」「帰れて、ここは俺ん家やぞ」「家賃払ってんのんはママやろこのアホンダラ」「俺はお前の父親やぞ」「要らんわそんなモン、くそが」という押し問答を十分程続け、最終的に蒔絵が父の鼻の付け根を殴りつけて鼻から出血、狼狽して数歩後ずさった父はそのまま団地の暗い階段を下の踊り場まで転がり落ちた。幸い死にはしなかったが父はあの時、ほの暗い踊り場で痛みにうめく己を静かに見下ろし、

「チッ、なーんや、生きてるわ」

面倒くさそうに階段から階下に唾棄した、悪魔のような蒔絵が相当恐ろしかったのだろう(僕は相当怖かった)、それ以後僕は父の姿を見たことがない。この日からしばらくして、母は父と別れたらしい。僕らは、僕が暮らしやすいだろうからという理由で、団地から平屋の祖母の家に引っ越した。

そうして、父の姿が消えた僕らの生活は凪いだ海ように平穏だった。

無駄な浪費を繰り返す父がいなければ、あとは僕ら親子三人と祖母、合わせて四人が母の稼ぎで慎ましく暮らしてゆくことは然程難しいことではなかった。僕は父に「ポンコツ」と評され、蒔絵に「どんじり」と言われた体で、それでもなんとか公立高校に進学し、大学にも進学した。僕はとにかくトロく、人並みのことのできない人間だったが、勉強だけは好きだった。

「どんじりはどんじりの生き方があるやろ」

そう言って、就職して最初のボーナスで僕に中古のノートパソコンを買い与えたのは蒔絵であり、大学卒業を前に母の世話になるのでもなく、就労して賃金を得るでもない、なにか他の生き方を考えろと言い出したのも蒔絵だ。ポンコツの僕は大学を出ても働く場所がなかった。母は、自分がずっと働くので伊織は好きなだけ大学にいたらいいと言ってくれたが、母だっていつか年を取って働けなくなり死んでゆくのだし、朝から晩まで忙しく働く母に代わって僕を気遣ってくれた祖母は鬼籍に入っていた。

当時既に家を出ていた蒔絵は僕が母の手元に残り、そして母の庇護の下でずっと学生を続けていくことを「甘いわ、甘々や」と言って、断固反対した。

「何のために大学でベンキョーしたんや、ホンマにポンコツやな、アンタでもできること、なんかひとつくらいあるやろ、考えてみ」

母が僕の将来について「蒔絵の言うこともわかるけど、伊織は勉強が好きなんやから、とりあえずあと何年かは学生をしてみたらどうやの」と言い、それで僕が大学院への進学を決めてからも、蒔絵は毎日借金取りのように家にやって来て、もしくはメールで「なんか考えろ」「なんか考えたんか」などと言いつづけた。蒔絵はとにかくしつこいのだ。

僕はこの件を大学院の指導教授に「うちに恐ろしい姉がいるんです」と半分世間話のつもりで相談をした、会話は時間がかかるのでメールで、すると

「それ、君なら多分できるよ『自立生活センター』ってわかるかな、当事者団体なんだけど」

という返信が帰って来た。それで僕は教授の言う『自立生活センター』を立ち上げる為に、まずは小さなNPO法人を作ることに決めた。蒔絵に尻を叩かれたからと言う訳ではないが、この先どのくらいあるかは分からない自分の未来を、自分の力で生きていくことを模索しようと考えたのだ。

NPO法人の設立にはまず発起人と十人の社員が必要になる。それには小学校時代から僕のポンコツぶりを知っていて何かにつけて助けてくれた友人の関君と、僕がこのことを相談した指導教授、それから蒔絵、僕と同じように自立を目指す似た境遇の仲間と、あとは大学の先輩にあたる戸波さん、それからSNSを通じて僕の考えに賛同してくれた各方面の人達が名乗りを上げてくれた。

僕はこの自分のNPO法人設立についての記録を、自身の修士論文にまとめている。表題は「Center for Independent Living ・自立生活センター設立の過程と障害者の地域自立史」。

この僕の修論とそれに関わる活動は、多分ちょっともの珍しかったのだろう地域メディアにほんの少し取り上げられた。僕が設立したのはCIL、『当事者による自立生活支援事業』というもので、身体に何らかの障害があり、介助が必要な人間のためのヘルパーと、利用希望者をそれぞれ登録し、その双方を取り持って調整し、補助金にまつわる事務手続きを行う、当事者による自助団体だ。理事は当事者で、事務局長も当事者、そういう決まりのあるやや特殊な団体を作りながら、そこに関わった本人を含む関係者の背景、この活動に参加した動機、目的を聞き取り調査してまとめた修士論文は、意外な程高い評価を得た。

僕はこの中で、能力主義の世界において確実に「別にいなくてもよい」と評価されるだろう僕が自分の存在自体をどう捉えているのか、僕を支援する人はどう考えても資本主義のロジックの中に回収されないこの活動になぜ関わり続けるのか、それぞれの人間の『理由』を見つけようと思った、僕自身がここに存在する理由を知るために。

皮肉でも、諦念でもなく、本当に本気で。

僕は自分の活動を法人のHPに毎回アップし、同時にいくつかのSNSも使って宣伝、という程でもないけれど状況を支援者やそのほかの人達に逐次報告もした。

―事務所になる部屋を借りることができました。
―冷蔵庫を寄付していただいたので、部屋に設置しました
―今年度の法人の財形状況報告をアップしています

最初は、支援者や友人への活動報告のつもりだった。でもそれは僕の予想に反してかなりのインプレッション数を稼ぎ、地方紙などに僕のことが掲載されたこともあって多くの人達の目に触れることになった。それに対して色々な人が色々なことを言った。「がんばって」「いいことだと思う」「自分も協力したい」そう言って賛同の言葉を掛てくれる人達が何人かいて、僕は勇気を貰ったが、一方で

「そういう人間を生かしておくために税金が使われるってどうなの」

という言葉もぽつりぽつりと、SNSのリプライ欄や、主にネットニュースの掲示板などにちらほら書き込まれた。その手の書き込みは活動の六年目、同級生に頼まれて取材を受けた地元テレビ局のニュースの放映の後が一番多かったように思う、テレビの力というのはまだまだ廃れてはいないらしい。確かに僕の法人の主たる財源は税金だ。この手の活動は一般にその存在が広まれば、フロントに出ている当事者を揶揄する人間は出て来るというのは、先人からたびたび聞いていたことなので覚悟はしていたが、一番しんどかったのはこれだった。

「ごめんやけど、こういう人達って、保護者が亡くなった時に安楽死させてあげて欲しいわ、なんで税金使って生かさなあかんの?それってなんか意味あんの?」

多分若い女の人が書いたと思しき文面を見た時、僕はちょっと動悸がして、背中に嫌な汗がつーっと伝うのが判った。『ごめんやけど』というライトで軽薄な弁明を前置きにしてはいるが、発言の骨子はこういうことだろう。

『おまえなんか死ね』

この人に対して、僕は文面で言い返すことはできた。

『現代の安楽死の文脈において、本人が望まない死を「安楽死」として定義することはできない、そこには僕の意志も人権も尊厳も存在しないからだ。また、かつて国民社会主義ドイツ労働党政権下のドイツにおいて『生きるに値しない命』と定義した人々を、T-4プログラムの標的とし、その相当数をガス室または致死量の薬物、もしくは餓死という形で死に至らしめた。あなたはむしろそれと同じことを言っていると僕は思う。そしてあなたのその無知な傲慢さと軽率さを、僕自身はとても許容できない』

でも、こういう相手に何を言ったってただの水掛け論になるだけということを、僕はよく知っている。どんなに理詰めで相手の理論の過ちを指摘し訂正を求めたとしても結局画面には「本人登場」「熱くなんなよ」「ハイ論破」なんて薄っぺらな言葉がひらひらと躍るだけだ。冷笑主義、そういうものと相対することは、僕にとってとても虚しいことだった。

悪意には、いくつかの種類がある。

相手の急所を狙い定めた周到な悪意よりも、高い知性で緻密に編まれた悪意よりも、無辜で無邪気でなにも考えていない稚拙な悪意は殺傷能力が各段に高い。すなわち、馬鹿には勝てない。

(ここはもう、やりすごそう)

そう思って画面を閉じようとした僕の背後に、法人の事務所であり、僕の自宅になっているアパートに仕事帰りに勝手にやって来て、差し入れと称して自分が食べたいだけのモンブランとシュークリームを十個ずつ買って来た上「アンタのとこの冷蔵庫小ッさいなァ、全然に入らへんけど」と言ってそれぞれを二つ同時にもりもり食べていた蒔絵が立っていて、口の中にモンブランを詰め込んだまま、僕の耳がキンとするほどの大声を出した。

「なんやコレ、コイツ舐めてんのか、伊織こいつ開示請求せえ、うちがボコボコにしたる」

世間はクリスマスシーズンで、蒔絵の職場ではクリスマスの降誕劇の日が差し迫り、毎日衣装づくりとピアノ伴奏の練習と子ども達への指導、多忙を極めていた蒔絵は、この時虫の居所がやや悪かった。蒔絵は法人の社員のひとりであり、弁護士でもある戸波さんにその場で連絡して、このコメントを書き込んだ人間のIPアドレスを調べるように言い、そこから住所と氏名を洗い出すと、相手に三桁越えの、とんでもない額の慰謝料を請求しろと言い張った。戸波さんは

「蒔絵ちゃん、それはいくらなんでも無茶や。ふっかけすぎやわ」

当たり前だが蒔絵にそう言った。法律についての専門家でない僕にもそれが常軌を逸していることは当然分かった。これは殺害をほのめかす表現ともとれるが明確な殺害予告ではないし、せいぜい誹謗中傷、名誉棄損なのだから相手から取れても数十万。しかし蒔絵の狙いはそこではなかった。

「それやったら、直接会って真摯な謝罪をってことにしてや、そんで全部チャラにしたるって」

―ソイツを、うちのとこに呼んでこい。

蒔絵の狙いは相手との直接対決だったらしい。事実、蒔絵はタイマン勝負でこれまで一度も負けたことがない。

でも僕はそういうことを望んではいないし、全く知らない人と対面で言い合いなんかできない。僕は、出生時のちょっとした事故で脳の一部に不可逆的な損傷を負っている、そのせいで身体のある部分は弛緩し、ある部分は強張り、自分の意志ではあまり自由に動かせない上に、言葉もゆっくりとしか出てこない、そしてその言葉は慣れていない相手にとって、かなり聞き取り辛いのだ。

(蒔絵、いいよ、僕は自分をどう言われても受け流せる、世の中には色んな人がいるんや、蒔絵だって僕を「どんじり」って言うやんか)

僕はゆっくりとそのようなことを蒔絵に行った。すると蒔絵は僕の言葉にかぶせてこう言った。

「ウチがアンタをどんじり呼ばわりする分にはかまへんねん。ウチがあんたをこれまで散々面倒見てきたやろが、なんぼでも言うたるわ。でもヨソの人間はアカン、何も知らん赤の他人がアンタになんやかんや言うのは、我慢ならん」

(すごいな蒔絵、すごい勝手だ。そして蒔絵が僕の面倒なんか、一度でも見たことあるだろうか)

僕は呆れたし、この件で呼び出されて僕の自宅兼事務所に来ていた戸波さんも、僕の入浴介助のために来てくれていたヘルパーの滝君も驚いていた。というかもう笑っていた。

「蒔絵ちゃんてなんかこう…なんちゅうか、ウン。すごいな」

結局、この事件というか出来事は、内容証明が届いたことで慌てた先方が、僕の代理人である戸波さんに「提示された金額はとても払えないので直接会って謝罪を」という形で一応の示談のようなものが成立することになった。僕はあまり気が進まなかったが、戸波さんが「こういうことはまたあるかもしれないし、社会勉強やと思って、一ぺん立ち会ってみたら?」と言うし、蒔絵は絶対来いと言って聞かないし、それで僕は指定された日時に、指定された場所に行くことにした。冬の日曜日、場所は戸波さんの弁護士事務所の応接室。

現れたのは母親らしい人に付き添われた若い女の人だった。

真っ直ぐに整えられた艶のある黒髪と、夜の藍色に塗られた短い爪、長い睫毛に、ゆったりとした赤いニットのワンピースとごつめのワークブーツ、僕にはよく分からないけれど、ああいうのが今、流行っているのだろうか。

その人は、戸波さんに促されてソファに浅く座ると、一瞬僕の方を上目遣いにちらりと見た。だから僕もすこし曲がった首を更に傾けて彼女に視線を合わせようとした。するとなんだかその人は恐ろしいものをうっかり見てしまった、という顔をした。日陰の大きな石を持ち上げたらそこにはいくつも足のある大きな虫がいた、そんな表情。

大丈夫だ、僕はそういうのに慣れている。

「あのう…この度は、大変失礼を申しましてすみませんでした、娘なんですけれど、今丁度就職活動中でして、でもホラ、こういう世の中でしょう…なんですか思うようにいかなくてそれでその…吉見さんでしたかしら、吉見さんが不自由な体でも色々と活躍しているご様子が、こう…羨ましいというか、妬ましく映ったと言いますか…」

ソファに座ったまま俯いて一言も言葉を発しない娘を隣に、母親の方が口火を切った。今回のことは、まだ世間をよく知らない娘が、思ったような未来がなかなか決まらないことへの焦燥を何の関係もないあなたに、ついぶつけてしまっただけのことだと。

「悪気はなかったんです」

言いたいことは分かる、就職を控えた未来ある娘さんだ。健康で健常で、この先誰かと恋をして結婚もして、もしかしたら子どもも産んで、望めばある程度のことはなんでもできる子だ。それが僕みたいな人間のせいでその未来図に傷がつくのは困る。

(でも「死ねばいい」に類する言葉って悪気以外のどこから出てくる言葉なんだろうな)

僕がそう思った時、「蒔絵ちゃんは、黙っといてな」と戸波さんに釘をさされていたはずの蒔絵が、僕らと彼らを隔てる応接セットのローテーブルに、ガンと足を乗せて大声を出した。

「オイコラ」

赤いニットワンピースがびくっと身体を震わせる。

「アンタなァ、アンタが言うた通りこのどんじりをやな、ウチの弟をや、ものの役に立たへん穀潰しやてこの世から抹殺してみ、そしたら今度は、次から次へとまた別のどんじりが出来てきてはそれを抹殺せなあかんて、そういうことになるねんぞ。そしたらそれがこの世に人間がたった一人になるまで続くと思えへんのんかいな。なあ、うちの弟をアンタみたいな考えの人間が「不良品」やて勝手に決めて、次から次へと殺して、それでそんなにええ世の中って、できるモンなん?できんの?なあ?教えてや、うちもうちの弟もアホやから」

ソファで腕組みしてふんぞり返り、片足をテーブルにどっかりと乗せた蒔絵の言動は、ほぼ反社のそれだが、言いたいことはまま分かる。でも言い方と態度が酷い。蒔絵の着ている仕事着件部屋着のトレーナーにプリントされたしろくまちゃんもきっと困惑している。

流石に僕は、僕のように生活に介助の必要な人間をひとりひとり殺して、するとその対象がどんどん次へ次へと移り変わって、とうとう人類が最後のひとりになる…とは思わないが、介助が必要な人間をすべて抹殺することが実際に世界をよくすることだとも思わない。僕は今のところ積極的に長く生きていたいとは思っていないが、かと言って今すぐ死にたいとも思っていないし、街の中で全く見も知らない人が僕をちらりと見て「あたし、ああなったら死ぬわー、ていうか殺して」なんて呟いた言葉が耳に届けば普通に傷ついく、できたら同じ目にあう人はいない方がいい。

そしてこの人の言ったことは、自身を「消される側ではない」と考えている人間の傲慢だ。僕が今そう言っても、きっと目の前の人には分かって貰えないだろうが。

蒔絵の鬼の形相に気圧されて泣きそうな顔をしながら、ニットワンピースのワークブーツが僕に深々と頭を下げて僕に謝罪すると、その人の母親は「こ、これはお詫びです」と、阪神百貨店の中にある有名な菓子店の紙袋をこちらにぐいと押し付けてきた、蒔絵の好物だ。僕はそれを固辞しようとしたが、身体の動きが緩慢で言葉のゆっくりしている僕が何か言う前に、蒔絵がハイハイとそれを受け取ってしまった。

「蒔絵ちゃんて、すごいなァ…」

小声で戸波さんが嘆息を漏らし、母娘が何度も頭を下げながら帰ると、蒔絵は早速きれいな包み紙をバリバリと剥がして菓子箱を開け、中から直径二十㎝、高さ十cm程のバームクーヘンを取り出して、給湯室から小さな包丁を借り、それを分厚く切ってもぐもぐ食べ始めた。

「なんや、たいひたことないヤツやったなァ、ママの隣でめそめそ泣きよったれ、ざまぁ」

口いっぱいにバームクーヘンを頬張り、やや不明瞭な発音で嬉しそうに勝どきをあげる蒔絵を、戸波さんはぽかんと口を開けて見ていた。だから僕はてっきり戸波さんが、蒔絵のその傍若無人な野人ぶりに驚き、そして呆れているのだとばかり思っていたが、実のところそうではなかったらしい。


それから季節がぐるりと巡った次の秋

「俺、蒔絵ちゃんと結婚したいと思ってる、というかするんだ」

そう戸波さんに打ち明けられた時、僕は驚いて暫く呼吸が止まり、ようやく喉の奥から声を絞り出すようにして戸波さんに言った言葉は、おめでとうございますでも、姉をよろしくお願いします、でもなかった。

「や、やめといたほうが、え、ええですよ」

それで僕は同席していた蒔絵に思い切り頭を叩かれた。僕の大学の先輩であり、労働問題と福祉分野を主に扱う弁護士であり、僕の活動に賛同してNPO創立当初から法務を担当してくれている戸波さんは、酒が弱いのにすぐ飲みすぎて道端でぐうぐう寝てしまうことが欠点らしい欠点というくらいで、あとは柴犬に面差しの似た春のように穏やかな人柄の好人物で、僕はとても頼りにしていたし信頼もしていた。しかしマゾだということは知らなかった。蒔絵との結婚は戸波さんたっての願いらしい、戸波さん曰く「俺の粘り勝ち」とのことだった。

僕は戸波さんが蒔絵を伴侶に選んだことについて、いささか懸念はあったものの、結婚は個人と個人の合意に基づく契約であり、僕には二人の契約を反対する権利なんてひとつもない。というかそんなそぶりを見せてしまえば相手は蒔絵だ、僕の命が危ない。

春のように穏やかな性格の戸波さんと、烈火のごとく激しい性質の蒔絵、二人の結婚は、僕らの母にも、元々僕の支援者でもある戸波さんの両親にも、特に反対されることなくむしろ歓迎されて滞りなく成立した。これまで何の陰りもなかった戸波さんのこの先の人生を憂慮しているのは僕だけだった。いいのだろうか、相手はあの蒔絵なんだが。

穏やかな十一月の晴れた日、蒔絵の職場であるさくらのてんし幼稚園の敷地の中にある教会と信徒館を借り、二人の結婚式と披露宴は和やかに執り行われた。爽やかで柔らかで、そして穏やかな秋の陽射しの中、会場に集まった列席者の三分の一は小さな子ども達で、花嫁の蒔絵の登場前から会堂は子どもの笑い声がさざ波のように響いてとても賑やかだった、まるで天国のように。子どもは皆、現在から過去数年にかけて蒔絵が担任した教え子達だ。

その中でも僕の目を引いたのは、僕と同じように車椅子に乗った子どもや、身体の動きがぎこちなく緩慢な子ども、それから医療機器を装着した子ども達だった。聞けば、蒔絵は毎年自分のクラスに加配と合理的配慮の必要な子どもを「自分が引き受ける」と、進んで受け入れて来たのだそうだ。僕と同じ星の下に生まれた子ども達を。

「蒔絵先生がここの園児だった頃、伊織君に意地悪する子は片っ端からブン殴っていたでしょう、覚えてる?」
「お、お、おぼえてます、蒔絵、ら、らんぼう、やった、から」
「その時わたしねえ、蒔絵ちゃんが弟の伊織君のことを大切にしている気持ちは分かるけれど、暴力はいけないし、そうやって相手を殴っても結局は逆効果なのよって言ったの。殴られた子は反省する前に悔しくなって、蒔絵ちゃんに守られている伊織君を、特別扱いの狡いヤツって思うようになってしまうでしょうって。だからそれよりも味方をたくさん作りましょうって」

蒔絵の勤務しているさくらのてんし幼稚園は、インクルーシブ教育という言葉が世の中に浸透するずっと以前から『どんな子どもも受け入れる』ということを標榜し実践してきた保育施設で、僕と蒔絵もここの卒園生のひとりだ。当時僕の担任だった藤野先生は現在、副園長であり園の実務面での責任者で、蒔絵の上司にあたる。

藤野先生は、今よりももっとずっと制御不能の野生の生物で、己と自分の持ち物(僕のことだ)に害なす存在に対して容赦なく拳を振り上げていた蒔絵に、当時こんな提案をしたそうだ。

「先生ねえ、これから伊織君みたいな子に沢山入園してもらって、元気な子もそうでない子も歩ける子も歩けない子もお勉強が得意な子もそうでない子も、とにかくみーんな一緒に保育をしていくつもりなの。世界にはいろんな人がいるのだから、幼稚園にも色々な子がいないとおかしいでしょう。そうやって皆が一緒に過ごせば、相手の姿が目に入るし、うまくすれば仲良くなるし、仲良くならなくてもいろんな子がいるんだってことに、ここにいるみんなは馴染んでくるでしょう、そういう感じにできたらいいなって思っているの」

当時の蒔絵は、藤野先生の提案に特には返事をしなかったらしい、先生は言葉を選んで優しく自身の理想と理念を説明したつもりなのだろうが、六歳の粗暴な少女にはまだ少し難しかったのだろう。でも藤野先生は構わず蒔絵と約束をした。

「でも、それにはちょっと時間がかかるの、だからもう少し先生に時間を頂戴ね」

子どもは自分自身で環境を選べない。インクルーシブ教育とは一種の環境の強制だ。でも様々な人間が存在していて、その人間にそれぞれ存在していい場所があって、そのことを実際に体験することは、そのまま人間が様々な形で存在する自由を認めることにもなる。

「蒔絵ちゃんはそのことを覚えていて、短大を卒業した後、園に就職試験を受けにきてくれたのよね、それで志望動機をお聞かせくださいってわたしが言ったら、昔先生が言ったように、伊織の味方を作りにきたんだって言ったの」
「へ、へえ…」

蒔絵は勤続十一年目で、新卒一年目からクラス担任を任されている。一クラスが大体二十五人、その二十五人が様々な身体条件、発達状況の子どもらと一緒に保育を受けて、それぞれが世界には僕のような、色々な身体条件の人間もあるのだということを認識し、多様な世界のありかたを許容したと仮定して現在その人数はおよそ二百七十五人。対して現在世界の総人口は八十億人だ。

「き、き、のながい、はなし、だなあ」

僕は笑った。笑った拍子に僕の言うことを聞いてくれない僕の首がぐいと上を向いてしまい、教会の信徒館の白い天井が僕の視界一杯に広がった。蒔絵は戸波さんと結婚するにあたって「結婚しても出産しても、定年するまで仕事は続けるで、アイツ(戸波さん)の給料なんか、勤務時間で割ったらうちの方がまだ時給自体は高いねんから」と言って笑っていたが、まさかこれが狙いなのか。思えば数学は中二の連立方程式でもうお手上げになった蒔絵だ、本気なのかもしれない。

「伊織、お姉ちゃんのお支度、できたで」

母が蒔絵の支度が整ったと言って、僕を呼びに来た。案内された小さな部屋にはまだ現役で美容師を続けている母が綺麗に髪を結い上げ、そこに白百合の花を挿した花嫁の蒔絵が立っていた。蒔絵はこちらを向くとわざと腰に手を当て、花嫁の初々しさを感じさせない女王の貫禄で「どうよ」と言うので、僕は言った。

「う、う、ん、ほぼ、ご、ごりら、やな」

蒔絵は、手に持っていたラウンドブーケを投げようとして母に「蒔絵ッ!」と止められ、仕方なく手近にあった紙コップを僕に向って投げてきた。

「なんやこのどんじりは!もうちょいしおらしいこと言えへんのんか!」

蒔絵はそう言ったが、蒔絵が僕をそうしたのだ。どんじりはどんじりのやり方がある、言いたいことは言え、やりたいことはやれって蒔絵が僕に言うたんやないか。

「あ、あ、ありがとうな、蒔絵」

その時僕がつぶやいたとても不明瞭な発音の言葉は、そこにいる誰に分からなくても、蒔絵にだけは伝わったはずだ。多分、きっと。

 

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