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短編小説:さみしい、あかるい、たのしい、こわい(短編集・詩を書く5)

僕達はロボットじゃないからときに飽きたり眠くなったりするさ
僕達はロボットじゃないからときに信じられない奇跡を起こす

萩原慎一郎『滑走路』

人間の声帯から発せられた音が空気を伝播して届くことを声であるというのならば、どうして僕の声であるはずのない声がチヒロの耳に届いたのか、そもそもそれは音声としてチヒロが感知していたものであるのか、それは今も全く分からないし、チヒロが僕と会話ができていたっていう事実は僕らしか知らない。あの時僕がそれを

(それはさ、君の超能力とか、霊感とか、そういう類のもの?)

そう聞いたらチヒロはこう答えた

「さあな、相性、みたいなもんじゃないの」



僕の多分人生最初で最後の唯一無二の親友であるチヒロは心臓が悪いらしい、違うか『悪い』のじゃない心臓とそこに連なる血管の異常だ。悪いなんていう言い方をするとチヒロはいつもひどく怒った。

「じゃあ優太郎は頭が悪いのかよ、そうじゃないだろ、脳の損傷とそれに伴う機能不全だろ、そういうのはちゃんと、正確に言えよ」

チヒロは先天性の心臓疾患で普通の人とは違うかたちの心臓で生きている。チヒロは肺循環と体循環、それぞれが普通の人間のようには成立していないのだそうだ。心臓の中で動脈血と静脈血、それの全部が混沌と混ざり合ってしまうので体のなかに十分な酸素がゆきわたらない。それで常に酸欠状態のまま生きている。うんと小さな頃に何度か手術をして少し改善したそれも、11歳を超えた頃には何度も不調がおきるようになった。海岸の町に毎年巨大台風がやってきて巨大堤防を侵食していくようにある時それが突然決壊して心不全をおこして一度はそのまま心停止、それで何とか命は繋いだものの、14歳のあの頃にはもう人工的に作り上げていた循環は完全に壊れてしまっていた。

それで心臓とその周辺の血管に何か不具合があるごとに入院し、機械の部品をとりかえるようにして切って、繋いで、時折取り換えてそれで明日の命を繋ぐ、その頃のチヒロはそういう生存の方法を選択するほかなく、毎日を用心しながら、慎重に生きていた。

僕はといえば、心臓はとても正常に頑健にできているものでチヒロのように心停止も心不全も、そういうものは一度も起こしたことはなかったのだけれど、脳が機能不全をおこしていて普通に働いてくれていないまま生きていた。それが一体、生まれた時の事故だったのか生まれる前からの疾患なのかは

「優太郎君には説明してもよく分からないと思うから」

僕の周囲の皆はそんな風に思い込んでいて、誰も僕に説明してくれないので僕自身は自分がどうしてこんなことになっているのかをよく知らなかった。けれどとにかく僕は立つとか歩くとか、話すとか、それでちょっと誰かと意思疎通するとか、そういう普通の人が普通にできることを殆どできない人間だった。それだから僕が

春の風の明るくひかることを毎年楽しんでいることだとか
夏の夕立の激しさをとても好んでいることだとか
秋の夕暮れに茜色に染まる自分の手足のことを酷く愉快だと思っているとか
冬の朝に車いすで霜柱を踏むときのシャリッとした音をむしょうに愛しているとか

そういう、世界を目視してそこにある空気に触れてそれぞれの音を聞き、そしてそれのひとつひとつをとても愛していることを、誰もひとつも知らないでいたんだ。

そのはずだった。

チヒロが、僕の前に現れるまでは。



僕らが初めて互いを知り、そしてそれぞれを認知したのは互いが14歳の時だ。僕はそれまでずっと市内の総合医療センターと言ってこことは別の病院にかかっていたのだけれど、支援学校の中学部に上がった頃から体の震えや吐き気、それから頭痛、そういうものが頻繁に起こるようになりそれは年々悪化していくばかりで、ひとたび震えが起きるとそれは自分の意思では止められないしふっと意識が飛んでぷっつりと自分の記憶が消えてしまったり、かと思えば世界がぐんにゃりと曲がり、まともで正確な知覚というものができなくなる。そんな時僕は、僕自身がそれと知らない間に死んでしまうんじゃないかと思って混乱するし、体中の関節が固くこわばって、口の中の唾液を飲み込むことができなくて口から垂れ、手指の先が死体のように冷たくなる。その状態はとても怖い。

(お父さん、お母さん、怖いよ)

僕はそのたびにひどく混乱し、夜も昼も声を上げずに怯えて泣いたり自分の意思ではそう容易に動かすことのできない身体で小刻みに震えて暴れた。

僕はこの現象に酷く困っていたけれど、もっと困っていたのは僕の両親だ。特に僕の母はとても優しい人で、それは多分、僕をこういうかたちに産んだのが自分であるということに無意識の責任を感じて自分を断罪していたって、そういうことなのかもしれないのだけれど、僕が毎日夜中に発作をおこしては大騒ぎしているのを必死で抑えながら

「どうしよう、優太郎が死んじゃう」

そう言って僕のことをとても心配していた。実際僕の体調は酷く悪くなっていたし、母も心配と疲労でとても痩せてしまっていた。それでこの大学病院の有名な小児脳外科医の先生を頼って転院して来たんだ。入院が続いて眠っていることの多かったこの頃、僕にはとても時間が過ぎるのが早かったような気がするし、ゆっくりだった気もするし、なんだか時空が少し歪んでいたような、そんな気もする。

チヒロは最初ひどく僕に失礼な奴だった。

普通、生まれつきの病気のある人間というものは生まれてからしばらくの間は入院して、ややあって退院して、それからまた入院してということを繰り返しているのだから健康で病気のない人間よりも病気だとか障害のある人間を見慣れていてそれぞれに踏んではいけない地雷というものを経験的に知っているし、それを避ける方法というものを熟知しているものだろうって僕は思っていたのだけれど、4人部屋のベッドに寝ぼけたクリーム色のカーテンの壁を挟んで、いや僕らは顔を合わせていたのだからそれは互いの顔の見える程度には開いていたんだよな、とにかく向かい合った僕にチヒロはこう言ってひひひと笑った。

「なあその頭、なに?私鉄路線図みたいだなァ」

僕は開頭手術の術後で、若い雲水のような青白い丸坊主に手術痕がまだ赤くしっかりと頭皮に残っているような状態で、確かにそれは私鉄の路線図のように僕のアタマのなだらかな丘陵とそれに沿って伸びる一本線、それに等間隔で刻まれた線路、そういうものに見えたのだろうけれどそれにしたってさあ。

(なんだよ、とんでもなく失礼な奴だな)

自分だって酸素を常時装着している人間のくせに。チヒロは病棟を歩く時は小ぶりのプロパンガスみたいなやつをがらごろ言わせながら移動していた。常にバイタルを計測してそれがよくない時には循環の補助デバイスのようなものを装着していないと生きられない類の人間だ、だったら僕と同じ障害者だろ。でも僕とは違ってチヒロは自力で動けて普通の子どもが多勢を占める普通の公立の学校に行っているらしい。だから僕とはやや毛色が異なる、しかしそうなるとこうも人は人に無礼で横柄になれるものなのかな、なんだよイヤなやつだな。

僕は分かりやすくムッとした。それで脳内で悪態をついた

(うるさいなこのボンベ人間、おまえ、循環器…多分心疾患だろ、僕より弱っちくて死にやすい奴じゃん、何が私鉄路線図だよ)

「は?初対面のヤツに向って死にやすいってなんだよ、確かに俺は何べんも死にかけてるけど今んとこ死んだことなんかねえぞ」

(は?)

「は?って何だよ、今、お前が言ったんだろ」

(僕はしゃべってないぞ)

「喋ってるだろ、ちゃんと聞こえてるぞ」

(えっ?)

「えっ?」

チヒロには、僕のまったく音声にならない声が、聞こえているのらしい。

僕はいつもいつも誰かに自分の声にならない声を伝えたいって、生まれてから今日まで必死に願って祈ってきたのだけれど僕のその気持ちを、それって電波のようなものなんだろうか、そういうものをわずかにでもキャッチした人間はこの時までひとりもいなかった。僕といつも一緒にいる両親でさえもだ、それが何故だかその時初めて会った最高に失礼で不躾で感じの悪い同い年のヤツがどうしてなのか僕の声を捉えたんだ。

(それって何、どういう風に聞こえてるの?僕の考えてることが全部わかるとか?)

「そんなの分かんないよ、でもアレだよ、イヤホンしてる時の音声みたいにして聞こえるんだよ、オマエの声がするからって別に他の…ホラ病棟ってざわざわしてるだろ、そういうのも遮断してないっていうか、なんて言うのかなあ…あのさ骨伝導スピーカーって知ってる?アレみたいな感じだよ、Bluetoothの」

(なにそれ、しらない)

「こういうの、ホラ」

チヒロが自分のベッドの横の床頭台の抽斗から取り出した黒いイヤホンを掴んで持ってきて、僕の耳の上にすっぽりとはめるようにして装着させて、スマホを操ると周囲の音とは別に音楽が聞こえた。普段両親の好きなバロック音楽か、支援学校で教科書的な音楽しか聴いたことのなかった僕にはチヒロが好きだというアーティストの伸びやかでとうめいな声がとても、とても鮮烈で新鮮なものに聞こえた、まるで春雷みたいだ。僕はそれを

(なんか、いいな、かっこいいね)

そう言った。

「だろ、これが分かるなんて、センスあるよ、オマエ名前なんていうの」

(優太郎)

「キュー太郎?」

(違う。ゆ・う・た・ろ・う!)

「アハハ、たまに優太郎の声って、チューニングが悪ぃんだよ、ごめんごめん、俺チヒロ」

僕らは唐突に突然に、そして一切の説明不可能の状況の中に友達になった。

チヒロには僕の他に友達がいたかもしれないけれど、僕には初めての友達だった。

僕らは原因不明の難病の子ども達で、特にチヒロなんてこれまで何度も死の淵に立たされてはこの生の世界にふわりと、もしくは無理やり奪還されるよにして舞い戻って来たってそういう人間であっただけに、全く説明のつかないこの現象を「そうであるように、あるがままに」飲み下すことを躊躇なくできる人間だった。理由とか、どうでもいいよって。どちらかというと何がおきてそうなったのか、これは一体どういう道理でシステムなのか、理由を知りたがったのは僕のほうだ。だから僕は聞いた

(それはさ、君の超能力とか、霊感とか、そういう類のもの?)

と聞いたらチヒロはこう答えた

「さあな、幽霊なんか見たことないけど。なんかさ、相性みたいなもんじゃないの」

こういうの、運命っていうんだろ。



それでもチヒロは一度だけ自分の主治医である小児循環器医に、本来発語のないはずの僕と会話ができるのだと、そう言ってみたことがあるらしい。そうしたら

「…チヒロも思春期だからなあ」

と言ってつい3年程の前に別の病院からやって来たらしい若くて快活でちょっと子どもをいちいち構いすぎる先生は静かに電子カルテに何かを打ち込んでしかるのち、小児神経科医がチヒロの病室に来てしまった。

「なんか君、幻聴がするんだって?」

以来チヒロは僕の声がどうして自分だけにわかるのか、なぜ自分にだけ謎の超常現象的な骨伝導スピーカー機能が発動したのかの解明を静かにあきらめた。

ま、超常現象って事で。

僕らはそれがどうしてなのか真相を追う事は「そのうち脳外科医にでも聞こうぜ」って適当に諦めて、ただ2人だけで通信するみたいにして会話ができるのだって、そういうことを楽しんだ。僕らは秘密の友達だ、誰も僕とチヒロが会話ができことを知らない、それぞれの体と命を守っている主治医も、僕の様子を見るために毎日この病院に来てくれる僕の母も、そして週に何回かチヒロの様子を見に来て洗濯物だとか、教科書や本なんかを届けにくるチヒロに面差しのよく似たチヒロのお母さんも、いつも僕の入浴介助をしてくれる谷田さんて、担当看護師も。

もともと誰とも会話をしないで十数年生きてきた僕なんだから特に困ることはないんだ。

僕は地球からうんと離れた砂漠の惑星に1人で暮らしていたところに突然友達ができたって、その事実がただ嬉しかった。チヒロにそう言ったらチヒロは

「星の王子様かよ、大げさだなあ」

と言って笑った。

ただひとつだけこの秘密の友達関係に困る事と言えば、僕は音声なしに会話ができるのに対して、チヒロは声を使って僕に呼びかけるもので、このからくりを解らない他人が聞くと物凄くそれが奇異なことに聞こえてしまうってことで、例えば僕とチヒロがゲーム動画を見ながら笑っていると、本当は僕とチヒロ、2人が息継ぎもしないでしゃべり続けているYouTuberの人の異様なテンションがおかしいってゲラゲラ笑っているのに、僕のそれは聞こえないから、チヒロが1人でしゃべって笑っているってことになってしまって、結果チヒロが長い入院生活の末に精神を病んでしまった思春期の少年なんじゃないかという疑いをかけられる。

めんどくせえなあ、オマエLINEとかできるようになってくれよ

そう言われたけど、僕は握力も嘘みたいに弱いし、スマホも持ってないんだし、そんなこと言われたってさ。

そして14歳の男2人が友達になってしょっちゅうつるんでいると、自分で言うのも何だけど碌なことは思いつかない、僕らはこののち、2人で病棟を抜け出すようになった。

と言っても僕は自力では歩くどころかほとんど動けない、だから移動の時の僕はいつも僕の力の入らない身体をしっかり固定できるリクライニングの車椅子に乗るのだけれど、病室の奥に置かれているそれにチヒロが僕を持ち上げてひょいっと乗せて、僕と一緒に病棟から抜け出そうぜって言い出した時僕はわくわくした。僕は自分の大人の計画と規律に反して自分の意思でどこかに行くなんてやったことが無かったから。

チヒロは心臓の病気の子の多くがそうであるようにひどく細身だけれどとても背が高くて、ほとんど寝たきりであるために体が極端に細くて生来小柄な僕をベッドから車椅子に移動させることができた。そしてその手際の良さを見るにつけ僕は思った。

多分こいつは病棟脱走の常習犯だ。

大体あの時僕の首には栄養のための点滴が深く埋め込むようにして刺されていたのだけど

「輸液ポンプのバッテリー十分持つだろ」

なんて言いながら、バッテリーのコードをはずしてくるくると点滴台に撒きつけ、それで病棟の看護師の一番手薄で、僕の点滴交換の時間にも被らない夜の23時頃をねらってそっと病棟から抜け出すって芸当を僕らは実行して成功した。

でも別に大学病院の外に出た訳でもないし、飲酒喫煙その他、そんなことはひとつもしていなくて、ただ1階のコンビニに行ってコーラとじゃがりこを買い、それを人のいない総合受付のソファにチヒロは座って、僕はリクライニングの傾斜を45度くらいにしてもらって2人で食べただけだ。というか僕は全介助だからチヒロの手からひと口貰ったって感じだ。僕はあまり口から沢山の栄養を採れないってそういう身体だったけど、じゃがりこもコーラも

(すごい美味しい)

そう思ったし、チヒロは

「だろ、体に悪いモンてさ、うまいんだよ」

なんて言って笑っていた。僕らはそう遠くへは行けなかったんだ、だって僕の体に入れられている点滴の輸液ポンプはそう長くもたない、すぐにバッテリー切れを起こして警戒のアラーム音がピーピー言うし、僕の車いすの後ろのスペースに無理やりはめ込むみたいにして乗せて来たチヒロの酸素ボンベはそのうち中身が空っぽになる。それが僕らの足かせだった。遠く離れると爆発しますって、そういうヤツ。

それでも僕らは2度目の脱走にも成功、その時には7階の中庭みたいなスペースに忍び込んでふたりで星を眺めた。夜に空の星を見上げるなんて僕には生まれて初めての事で、それがあんまり嬉しくて楽しくて、僕が声にならない声で大騒ぎしたものだから

「オイ優太郎、興奮しすぎ、熱が出るぞ、CRP値爆上がりで明日からPICU送りになるぞ」

だなんて言ってひひひって笑ったけど、僕はあの時本当に世界って広いんだなって思って感動したんだ。6月の梅雨の晴れ間の空にキラキラとしたほたる色の星がいくつも見えてそれから月が夜の曇天の間から顔を出して、そういうものが世界に存在していてちゃんと光を放っているなんて、これは凄いことだよチヒロ。だって僕らの病室の中からはそういうものはちっとも見えないじゃないか。庭園の中のばらの垣根の隙間に僕らは身を隠すようにして空を見上げた。そうしたらふいにチヒロが

「なあ優太郎は今度また手術なんだろ、俺もその後、多分3日くらい後かな、手術なんだよ、僧帽弁てわかるか?それがぶっ壊れちゃっててどうにもならないんだって、だから人工弁に取り換えるんだってさ」

めんどくせえなあ。

そう言った時チヒロの瞼が少しだけ痙攣していたのを見た僕はチヒロが酷くそれを怖がっているんだってことがちゃんと分かった。僕は胸とか心臓を切ったことはないけれど頭と時折壊滅的に壊れるお腹を何度か切っているから知っているけれど、術後って苦しいし普通に痛いんだ

ごりごりごりごり

しんとしたICUの中に自分の骨と命の削れる音がする。

ごりごりごりごり

あれ、本当にやめてほしい。術後って場合によっては身体の向きを変えることもできなくて、垢と汗の溜まっていく身体を拭いてもらうこともできない、だから自分が臭い、もしかしたら自分はもう死んでいてそれで組織がどんどん腐っているのかもしれないって錯覚してしまって僕はそれが嫌なんだ。それにレスピレーターって人工呼吸器のアラームの音、あれも嫌だ、人が冗談抜きに死にそうになっているのにあの能天気な上っ調子のファンファンて音、すごくイラつく。僕が神様なら世界中のあの音をい今からすべて綺麗なピアノの黒鍵の音に変えるのに。

(手術、怖い?)

「…怖い」

(でもさ、麻酔が効いて瞬間的にブラックアウトするみたいにして眠るだろ、それでああこのまま意識の無い状態で死んだら、僕は両親以外の人間の他には誰の記憶にも残らないのかもしれないなっていつも思うんだよ、それなら両親以外は泣かないのかもな、僕は世界に殆ど認知されてない人間で、そこだけはよかったなって、僕の死は自分の身内以外誰も傷つけないんだって)

そう思うと僕は、手術中の眠っている間なら死ぬのはそれほど怖くないんだ。僕がそう言うとチヒロはなんだかひどく怒ってこう言った

「バッカ、オマエ、俺がいるだろ、俺はお前のこと生きてる限り覚えてるぞ、俺以外の人間の全部がオマエのこと覚えて無くても地球上77億人ぶん脳細胞に刻むみたいにして覚えてるぞ、だって俺らは友達だろ、ていうかなんだよナンでそこで優太郎が死ぬ前提なんだよ、そんなことになってみろ、俺は心不全起こすまで泣いてやるぞ、そうしたら俺の先生は毎日、日勤当直だ」

(でも、実際僕らは普通より死にやすいんだ)

「それはそうかもしれないけど、でも健康なヤツだって、生きるのは一回だけだ、その日が来たらみんな死ぬんだ、そのへんは卑屈になんなよ」

チヒロがそんなことを言うので僕は、しばらく星を見ながら人間とかそれ以外のものでもいいけど『生』っていうものの一回性ってなんだろうなって、そういうことを考えた。星の光はもう何万光年も向こうからここに届いているのだから、あの星はもうないのかもしれない、星も僕らもそれぞれの生きている長さはとんでもなく違うけれど、それでも生きていられるのは1回きりだ。

チヒロのような病気の人は今のところ平均寿命はそれほど長くない。僕は僕で、身体の司令塔である脳が正常に機能していないってことは、それがいずれは全身の不調を招くってことで、僕の同級生でもある日突然「虹の向こう側に行きました」ってそう言われる子がこれまでなかった訳では無いんだ。

僕らはその存在自体がとても脆弱だ。

(死んで、哀しみ以外の、何かが残せたらいいのにな)

「は?何を?金とか?」

(そうじゃなくてさ、例えば僕は死ぬとしたら高確率で脳が先に死ぬだろ、でも体はその後数時間か数日生きるんだ、そうしたら使える臓器は使ってほしいとか、そういうのだよ。例えば僕が死んでもし、心臓が生きたまま取り出せますよってことになったら、それをチヒロにあげるよ。僕の心臓は正常で健常だ、それならチヒロは今のままでいるよりもずっと長くいきられるだろ)

「そういうのは無理なんだ、俺は移植待機者とは違うし、仮にそうなったら別の違う場所でずっと機械に繋がれて誰かの心臓を待ってる子が助かるんだよ…ってやめろよそういう話、だったら俺は、俺が死んだらお前に声をやるよ、これはアレだよ人魚姫の魔女の契約的なヤツだからな」

(なんだよソレ、魔女って、ぜんぜん医学じゃないじゃん)

「いいから、あの金星に誓え、俺は死にたくないし、オマエも死なない、でも万が一うっかりまかり間違って俺が死んだらお前に俺の声をやる、それで優太郎が実はちゃんといろんなことを知覚して考えて、俺はなんでも分かってる聡明極まりない人間なんだって世界中の奴らに知らしめろ」

(それならやっぱり僕はチヒロに心臓をあげるよ、ホラ何だっけ、その…魔女の呪い的なアレで)

「呪いじゃねえよ、魔法だろ」

僕らは遠く2億5970万kmの先にあるらしい金星を眺めて笑った、6月の晴れ間、ほんのりかすかに湿った空気の中、僕らはせめて半世紀、いや四半世紀でいい、地上の重力の中に僕らの命をおいておくことはできませんかって、それを人魚姫を人間にしてあげたという魔女に祈った。

僕らは、僕らをこんな不確かな身体に作った神様なんかはひとつも信じていなかった。

「いました!チヒロ君!優太郎君を連れ出しちゃだめじゃない」

僕らはその日、僕の手術の3日前、そしてチヒロの手術の6日前に病棟脱走の現行犯で看護師に捕獲されて、僕が自力で逃げることはできないのだから、チヒロがイタズラ心で僕を連れ出したのだろうって、チヒロは看護師と当直医にこっぴどく叱られて、病棟の看護師は始末書を書かされたし、挙句僕らの両親まで呼びだされた。

チヒロの両親はチヒロを酷く叱り、僕の両親にただただ謝っていたけれど、僕の両親は、お父さんは昔から本当に細かい事を気にしないってそういう性格なもので「いや、別に優太郎に何かあった訳じゃないのだし、同じ年の男の子同志通じるものがあったのかもなァ」なんて笑っていたし、お母さんは

「あの…チヒロ君?は優太郎のお友達だって、おばさん、そう理解していいのかしら」

とチヒロに恐る恐る聞いていた。確かに僕はあの時、チヒロ意外の人間が理解できる言語を持っていなかったけれど、お母さんは僕が全く信頼をおけない人間の手で夜の病院に、それが全く自力でないにしても、散歩なんかに繰り出すわけないんだって分かっていたようだった。

それでもまさか、僕とチヒロが互いに理解できる明確な言語を持って意思疎通をしてたとは、思わなかったみたいだけれど。

それでも僕らの間には何かしらの細い糸のような何かが、それは透明な通信手段として不確かに存在しているのじゃないかって、お母さんはそれを何となく感じ取って知っていたのじゃないかと思う。



僕がそれを確信したのは、僕が手術室に運ばれて、そして10時間だったか、結構な長さの時間をそこで過ごし、それからICU、あの時の僕のややもすればふと死の方向に傾きかける命を保持するための暗くて湿っていて温かな施設の中に僕の身柄がうつされた数日後の事だ。

僕の体から鎮静と麻酔の魔法か少しずつ消えて解けてそれで心配そうに、少し安堵したように、それからほんの少しの哀しみをにじませてお母さんが僕の顔を覗き込んでいるのの分かった瞬間

それだから僕がうすぼんやりと目を開けてICUの天井の色と形を目視した瞬間

「優太郎、あのね、お友達のチヒロ君がね」

チヒロは僕が目を覚ます1日前に、静かに眠るようにして遠くに行ってしまったのだと、お母さんは僕に静かに告げた。

遠くって一体どこだろう、もしかしたら僕がチヒロに会う前にいたあの寂しい惑星のことだろうか、だとしたらあそこはダメだチヒロ、そこには僕の声が届かないんだよ。



チヒロは、心臓の中を切って開いて人工弁を取り付けてそれを閉じたところで心不全を起こしてそれが元に戻らないまま、術後ICUで大勢の医者や看護師やいろいろの人々がチヒロの命をこの地上の重力の上に繋ぎとめようとして手を尽くしたのだけれど、それでも正常な鼓動をとり戻すことがなかったのだと言う。お母さんは、チヒロ君は優太郎の友達だったのよね、あの子は優太郎を夜の冒険に連れて行ってくれたのだものねと言って声を殺して泣いた。

友達の死って一体どういうものか、僕はこの時初めて知ったのだけれど、それは辛いとか淋しいってことではないんだ、それは怒りによく似た感情なんだ、僕はいまだかつてそれほど怒ったりしたことがないと思う、でもきっとそうなんだ。

僕は頭蓋骨を開けて脳の周辺の色々を切ってぬぐった直後である頭の中がしんと冴えて冷たくなるのを感じた、そしてテトリスみたいに色々な組織と組織がカシャカシャと重なって連なってひとつの完成された形を作って僕の頭の中は整然と整理されて繋がり、僕はまだ人工呼吸器が挿管されていた時の喉の痛みと違和感の残っている喉で、声帯で、生まれて初めて意味のある言葉を発した、とても大きな声で。

「なんでだよ!」

それはきっと僕が思っているほどは明瞭で明確な発音ではなかったのだろうけれど、そこにいたすべての人が僕の声を聞き意味を理解し、そして驚愕して、ICUの看護師は慌てて僕の主治医を呼びに行った

「先生、優太郎君がしゃべりました!」

産まれた時、新生児仮死とかいう状態で、ひとつも泣かなかったらしい僕はこの日、14年という時空を超えて声を出して泣いた。

友達の死

友達の死

友達の死

どの角度からどう眺めても純粋に哀しいこの出来事が僕の脳のどことどこを繋いで突然の言葉というものを僕に産んだのか、それは僕の先生にも「ちっともわからない」ということだった、脳について、まだ人類は知らないことの方がずっと多いんだとも言っていた。

「君がずっと何かを僕らに伝えようとしていたこと、僕らは全然気が付かなかったんだね、本当にすまなかった」

先生はICUから一般病棟に戻った僕に深々と頭を下げた。僕はそこまで明瞭に話ができる訳ではないのだけどそれでもあまり回らない舌で

「いいんです」

ってそう言ったんだ。先生は今後、君のような症例がないとも限らないから君のことをもう少しよく調べていいだろうかと言ったけれど、どんなに詳しく調べたところで、僕が突然言語を獲得したことの原因は分からないような気がする。だってこれはチヒロとの約束が成就したってことでそれ以上でもそれ以下でもないことなのだから。

「いいから、あの金星に誓え、俺は死にたくないし、オマエも死なない、でも万が一うっかりまかり間違って俺が死んだらお前に俺の声をやる、それで優太郎が実はちゃんといろんなことを知覚して考えて、なんでも分かってるんだって世界中の奴らに知らしめろ」

それはチヒロと、あの日の金星だけが知っていることだ。

チヒロ、君は今どこの惑星に行ったんだろう、君がいなくなってしまってから僕は初めて言葉っていうものを得たのだけれど、僕はいま酷く寂しいんだ。

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きなこ
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