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短編小説:夏からの手紙

河川敷のグラウンドの奥、セイタカアワダチソウをかき分けてボールを探しに行くと、そこはとても青臭くて、口の中にも苦い味が広がるような気がしたものだ。僕はボール探しが酷く嫌だったけれど、僕とバッテリーを組んでいた圭ちゃんは違った。
 
「そういうのも、キャッチャーの仕事やし」
 
そう言って草むらの中に飛び込んでいく圭ちゃんは、小学五年生の夏まで僕の親友だった。
 

 
ポストの中の無記名の茶封筒に気が付いたのは月曜の朝だった。そこには切手も貼られていなければ住所も差出人もなく、でも中の白い便箋には子どもの字でこう書かれていた。
 
『ほんとうは野球、やめたくなかったんやろ』
 
妻の莉子は中身を見る前に「なにその茶封筒、気持ちわる…」と眉をひそめ、そんなの捨ててよと言った。
 
「近所の子が、うちを友達の家と勘違いしたんじゃないかな」
 
二年前に大手デベロッパーが大々的に売り出した千葉の住宅地全三十区画、一区画が大体百平米前後でよく似た外観の白い家がずらりと並ぶそこに、妻の実家からの援助で戸建てを購入したのは娘の陽菜が二歳になった去年のことだった。
 
「もしかしたら間違いましたって、差出人の子が取りに来るかもしれないよ」
 
僕はその封筒を捨てないように莉子に言って、家を出た。
 
自宅のある津田沼から勤務先の品川まで、総武線快速に乗って三十八分。僕だけの年収ではとても手の出ない広さの新築一戸建てを「援助してやるから買え」と義父が言った時、僕は躊躇したが、莉子は喜んでそうしようと言った。
 
「だって、私達の収入じゃあペアローンを組んだって、こんないい物件、とても無理よ」
 
義父はバブル期を経験した元商社マンで、酔うとゼネコンに勤めている僕のことを「土建屋」と呼ぶ。
 
そんな義父を、僕は実のところ好きではなかった、自分の母親と同じように。
 
自宅の購入資金の相当額を「援助してやる」と言う義父の申し出を受けたのは、ただ単に僕が他人との摩擦を好まないからだ。
 
小学五年生だった僕が、親友の圭ちゃんと小学一年生から続けていた少年野球チームを「辞めなさい」と言った母に異議申し立てをしなかったのも、僕が他人との摩擦を好まなかったからだ。母にひとこと嫌だと言えば、僕がその意見を覆すまで「話し合い」が続く、時には朝まで。
 
「もっと海の近くに住みたかったな…」
 
灰色の人の群がぞろぞろ白い駅舎に吸い込まれてゆく様子をぼんやりと眺めながら、僕はぽつりとそう呟いた、本当はもっと狭くても古くてもいいから潮風がぷんと家の中に薫ってくるくらい海が近い所に住みたかった、本当は建築工学じゃなくて、宇宙工学がやりたかった、本当は中学入試なんかしないで圭ちゃんと同じ中学に行きたかった、あの夏だってほんとうは
 
「ほんとうは野球、やめたくなかったんやろ」
「えっ…」
 
振り返ると、そこに圭ちゃんが微笑んでいた。真白いユニフォームの胸には筆記体でチーム名の『Eagles』の文字。
 
「圭ちゃん、なんで…?」
「なんででもいいやんか、行こ?」
「行くって、どこに?」
「海。だって俺ら、夏合宿で行くはずやったんやん、豊岡の海!」
「ああ、豊岡…そっか、海か」
 
僕と同じ年の筈の圭ちゃんは、あの夏の十一歳の姿のままだった。それはよく考えなくてもかなりおかしなことだった。でもこの時僕は何も考えず、圭ちゃんと一緒に品川とは反対方向の千葉方面行きの電車に乗り込んだ。
 
(小五の夏、僕が直前でキャンセルしたチーム合宿の会場の豊岡の海はここからうんと遠いけど、千葉の海ならもうすぐそこだ)
 
お盆の中日、都心と反対方向に向かう電車に通勤客はまばらで、海水浴客も思ったよりは少なく、三十四歳のおじさんと十一歳の少年は並んで座り、がたんごとんと同じリズムで一緒に揺れた。
 
僕と同じ一九九〇年生まれの圭ちゃんが、十一歳の姿だということを、僕はこの時もやっぱりひとつもおかしいと思わなかった。むしろ六年生なったら二人でバッテリーを組んで夏期大会に出るんだと意気込んでいたのにあっさりチームを辞め、あげくその年の冬に行先も告げず引っ越しをした、そんな不義理な僕にわざわざ会いに来てくれたんだということが嬉しくて、僕は圭ちゃんに「どうやってここに来たんや」と聞いた。
 
圭ちゃんはあの頃と少しも変わらない笑顔で「悠ちゃんに会いたくて、しらん間に来てしもた」と言った。
 

 
小四の春、僕は母に言われるまま、中学入試専門の学習塾に入った。僕はあまり気が進まなかったけれど、うっかり反論なんかすると話が長くなる。でもこの時、僕は言うことを聞く代わりにひとつだけ条件を提示した。
 
「野球は続けさせてほしい」
 
母は渋々その条件を飲んだはずだった。それが五年生で志望校判定模試の点数が伸び悩んだ夏、母はあっさりその約束を反故にした。
 
「だってこの点数じゃ、受からへんわよ」
 
そうして僕は渋々チームを辞め、親友の圭ちゃんに合わす顏もないまま、父方の祖母が亡くなったことで空き家になった隣町の戸建てに引っ越したのだった。僕はその後大阪市内の私立校に合格し、圭ちゃんとはそれきりだ。
 
「本当は僕あの時、野球、辞めたくなんかなかったんや」
「知ってるし」
「ごめんな、僕…お母さんに逆らえへんていうかさ…」
「いいっていいって、おっ、ファンタグレープあるやん、飲も悠ちゃん」
 
千葉駅で一度乗り換え、稲毛海岸駅に辿り着いた僕らは駅の自動販売機で缶入りのファンタグレープを買って海を目指した。
 
お盆も少しも弱まることのない日差しは僕らの背中を容赦なく照り付け、普段クーラーのきいたオフィスで図面ばかり見ている僕はすこし眩暈を覚えた、圭ちゃんは自分のキャップを貸してくれた。
 
圭ちゃんは現在の僕のことを聞きたがった。悠ちゃんは今何してるん、野球選手か宇宙飛行士になる夢は叶ったん。
 
「いや、どっちも叶わんかった」
 
そう答えるのに僕は少し、勇気を要した。
 
親の言いなりに受験した私立の中高一貫校から、親の言う通りの国立大の工学部に進学し、そのまま大手ゼネコンに入社して、二十代の終わり頃母親に「あんた彼女とかいてないの?」と言われるのが煩わしくて知人から紹介された莉子と二年付き合い、「そろそろ結婚しないの?」と聞かれたから結婚して、その莉子の父親がここに住めと言った家に住んで、子どもはまだかと言われて結婚二年目に陽菜が無事に産まれたけれど、最近では「次は男の子だな」と義父と実母に急かされている。
 
「わりとつまんない人生だよ」
 
僕が圭ちゃんに言うと、圭ちゃんはあの頃と少しも変わらない笑顔で言った。

「悠ちゃんは真面目やなァ、嫌なモンは嫌やて言うたらええねん、監督がなんぼ『バンドや』て言うても、フルスイング行きたかったら、思い切りバット振ったらええんや」
「そうやって監督の言うこと聞かんでバリ怒られてたんは、圭ちゃんやんか」
「ええやんけ、人生はなァ、思い切りが肝心や」
「思い切りかァ…」
 
僕らは水平線のむこうに静かに茜色が落ちてゆく頃まで、ずっと他愛もない話しをして、そうしてそこで別れた。
 
圭ちゃんは、これからまだ行くところがあるんやと言い、僕は圭ちゃんに「じゃあ」と手を振った、圭ちゃんの姿は水平線に溶け、それはまるで夢を見ているようで、同時にひどく現実味があった。
 

 
圭ちゃんの姿が消えた後、ふとスマホを見ると、会社からと、同僚からと、莉子からと、それから実家の母からの着信履歴がずらりと並んでいた「やばいな…」そう僕が呟いた時、スマホが震えた、母からだった。
 
「…もしもし」
「悠大?あんた今どこにおるのッ!」
毎度耳に噛みついてくるような母の声が僕の所在を訊ねたが、僕はそれに答えず全く別のことを聞いていた。圭ちゃんのことだ。
「なあ、僕が小五までいた野球チームに野崎圭太郎君ておったやろ」
「は?今そんな話どうでもええやろ、アンタ、ええ年して無断欠勤した上連絡もつかへんてどういうことやのッ!」
「ええから言えや、知ってるんやろ、圭ちゃんて一体どうなったんや!」
 
僕の怒号に気圧されたのか、スマホの向こうの母は一瞬押し黙り、それから小さな声で「亡くなったんよ、あんたが六年生の十二月に、車の事故で」と言った。
 
圭ちゃんがこの世にもうないことを、僕はその当時うっすらと気が付いていた。受験を目前にしたクリスマスの頃、母の携帯にかかってきた電話、画面にかつて所属していた野球チームの監督の名前があったこと、母の狼狽した声、圭太郎君、葬儀、香典、そんな言葉の断片。
 
電話の向こうの母は「入試直前のあんたを動揺させたくなかったんよ」と、小声で僕に言った。
 
「そうやな、そんなことで僕が不合格になったら、これまでの苦労と費用が水の泡やもんな、せやけどな、そんな大事なこと黙っとくなんて、ひとでなしのすることやぞ」
「あんた、親になんちゅうこと言うんよ」
「ほんまは辞めたくなんかなかったんや…」
「は?何言うてんのあんたは…」
「ほんまはッ、野球ッ、辞めたくなかったんやッ!」
「なら、そう言うたら良かったやろ!」
「せやから今、言うてるんや、もう僕に二度と命令すんな!」
 
通話を切り、スマホをアスファルトに叩きつけようとして止めた。母に言い返したのは、声を荒げたのは、もしかしたらこれが人生で初めてかもしれない。
 
会社に「熱中症でぶっ倒れてました」という我ながら苦しい言い訳をして自宅に戻り、僕のことを心配して待っていてくれた莉子には手をついて謝った、莉子は僕に「ほんと、気を付けてよ」と言っただけで、それ以上のことを何も聞かなかった。
 
「あ、あのさ、今朝のあの手紙、どうした?」
「手紙?なにそれ」
 
莉子はそんなことはいいからお風呂に入ってきてと、僕を風呂場に急かした。見ると確かに今朝シューズボックスの上に置いたはずの手紙がない。
 
僕の口の中に、あの河川敷の草むらの中にいる時の、苦い味が広がった。
 

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