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去年の春の事、精神科に行った話。

1.昨年の春のこと

昨年の春そして初夏にかけて、まだ平静で正常な世界の花散る日々そして風光る季節、私はとても悲しかった。

理由は、よくわからない。

花曇りの春、風に舞う桜の花びらを見ても悲しく

雲ひとつない青空に翻るこいのぼりを見ても哀しい

子ども達が自宅で大あばれして弧を書いて作った床の傷を見るとそれは普通に悲しいそれは勘弁してウチは社宅よ。

とにかく何を見ても不意に涙が出る、何を見ても辛く哀しい。

誰にも会いたくないし、誰かと会話していても言葉がうまく出てこないし、140字を文字で綴る事ならいくらも出来ると言うのに、お陰で子ども達の授業参観に行くのもPTAのお当番に出向くのも、エベレスト踏破位に果てしなく苦しく険しく、ついで年甲斐もないメランコリック乙女みたいな精神状態、それに割とどころかかなり困っていたがそれに加えて

もの忘れが激しすぎて困っていた。

どこが乙女だ、健忘症か、老人か。

飲みかけのコーヒーを温めようと電子レンジに入れて、そのまま忘れ、あれ、コレ何入ってるんやった?あ、コーヒー温めてたわもう一回温めるか、で、今何してたっけ、最初に戻る。

それを日に3セット、知っているだろうかコーヒーは温めが行き過ぎると言い加減煮詰まりエスプレッソを通り過ぎてコールタール状になることを、当然まずい、とても。

それ位ならまだ私も中年期、脳細胞もどんどん死にゆくお年頃、日々の生活に忙殺されればコーヒーのひとつも忘れて生きるものかと思えたが、ある日そのオーブンレンジで夕飯の鶏肉のオーブン焼きを作ろうと庫内を余熱し、余熱完了のアラームでレンジの扉を開いたら、何もない筈のそこに白い、丁度某アナ雪のオラフが半分融解したかの如き塊が哀しそうに鎮座していて私は悲鳴をあげた。

これは何、入れた覚えの無い謎の物体は、心霊現象か。

「これは余熱の前に作り置きの筑前煮の入ったタッパーを温めようとしてそれを失念、そのまま余熱を開始し、余熱温度200度の熱で溶けたもの」

であると私の悲鳴に駆けつけてくれた息子が推理解明した時には

「次は火事が起きるな」

と思った。

そんな事が日常になりつつある毎日、自分どころか子ども達と自宅が危ない、何度も言うがウチは社宅だ。

私は焦った。

そしてその健忘症状著しい毎日の中に同時進行で

「死にたい」

という感情が、それこそ忘れて過ごしてくれたらいいのに忘れる事が出来ず頭にこびりついていて、いやまて自分、今死んでどうする、まだ当時10歳をカシラに7歳と1歳の息子娘と娘。絶賛手のかかる盛りの子ども達をこの世に置いて。

かぶりを振って思いなおして油断すると彼岸に誘い込む何かを振り払って此岸にしがみついていた。

これは、少しきつかった。

しかし私は何としても子どもの成長を見届けるまで生きるべきなのだそう決めているのだ、たとえ今日死神がウチに来てお前は明日死ぬと言われても。

この時、この頃、3きょうだいの内、重い心臓疾患を持って生まれてきた末っ子、娘②の2度目の大きな手術が目前に迫っていた

主治医が決定する手術のその日、娘②を手術室の執刀医に無事に手渡さなくてはいけない。

それが母親である私のその頃の人生最重要課題だった。

2・夫婦として負けた事

子育ては夫婦の試金石とはよく言うが、私達夫婦はこの頃、この試金石に大敗していた。

この時、私は夫その人が大嫌いだった。

じゃあ今は大好きかと聞かれると、そんなことを臆面なく人様に言って歩くような季節が人生から過ぎ去ってしまった今の自分にはもう何とも言えないが。

夫は生来、生真面目な働きものだ、若干八方美人の気はあるが、それでもいい年をして自宅に引きこもり、小学校からの電話も出たくないので気づかないフリをしたいけどどうしようといちいち懊悩するモラトリアム主婦の妻からしたら高度な社交性を持ち社会にきちんと適応したまともでまっとうな人物であると言えると思う、彼の名誉の為に。

彼は外で懸命に働き、家族の口を養い、子どもを父として愛していたと思うしそれは今もだ。

しかし私達の元に生まれた子どもの3人の内

1人が学校で問題を起こさない日が無い衝動性優位、パワータイプADHD児

もう1人が多少の事ですぐ死にかける上、予定の手術をこなしていかなければ無事成人の日を迎える事の難しい心臓疾患児。それは私たち平凡で凡庸な夫婦には相当な難問となって立ちはだかった。

例えばこれが大学受験なら、地方公立高校で中堅から上位の学力で奥ゆかしく地元国立か地方でそこそこの私立を受けましょうとしていた普通の高校生に、突然

「ハーバードかUCLAあたり受けて合格してきて」

位の実力の乖離した、それ以前にどうやって受験するのそれ位の挑戦を突然強制力のある何かが仕掛けてきたことと同様、まさに晴天の霹靂のように思えたし実際そうだった。

無理、絶対無理。

しかし無理でもなんでも子は産まれてきて。

そして産まれたその日から長期生存の為の親子の戦いは始まる。

否応なし、懊悩する時間0、だって生きて産まれてきたのだから、それを私が望んで神様か誰かが許したのだから。

娘②は無事生まれてはきたものの、即手術、短期決戦で帰宅という予定を組むことが出来ず、長期入院をして手術ができる日を待つ事が必要になった。それに共鳴するように問題行動の悪化した息子、ふたりを抱えて私は当然疲弊した。

その後、退院は果たしたものの、娘②は治療の過程の後遺症のような形で口からミルクも食事もとれなくなり、その彼女の為に日に6回の栄養注入、絶対忘れてはいけない投薬。

その注入と投薬の為に鼻から胃に直接通ったNgチューブという細い細い管、それを顔に留めるテープが娘②のすべすべの頬を酷く荒らし、それがかゆいからと顔をこする娘②のせいで日に何回も外れる、胃の中に通っていた細い管が鼻からするりと出て来てしまうのだ、そのたびに入れ直し、暴れる乳児を押さえつけて、その上この栄養注入の形態はとても吐きやすい、娘は毎回注入する度に吐いた。

その間に入る息子の問題行動を知らせる学校からの電話。

「何とかしてください」

そっちがそっちで何とかしてくれ、今それどころじゃないんや。

私の日常は完全に失われていた。

何しろ深夜にも娘の栄養注入があり、眠っていても娘は吐く、それで泣けば、元々肺循環に問題のある娘②はてきめんに顔色が悪くなる、抱き上げて本人を落ち着かせなければ、吐いたものでドロドロになった娘を抱き上げて自分も吐瀉物だらけになりながら私も泣いた、これどうしたらいいの、誰か助けて。

その間、夫は普通に勤めに出ていた、その頃の彼の毎日それは忙しくて早朝は6時から夜遅く、子ども達が寝付くまで。何しろウチは夫しか仕事をしていない、夫ひとりが文字通り稼ぎ頭なのだ、夫が働かなくては家族が干上がるのは私も十分わかっている、だからこその分業だ、私が子どもと家庭を、夫が仕事を。

特に医療的ケア児など自宅ではふた親いるならそのどちらかが責任者として始めから終わりまでを管理監督していないと何かしら抜けが出る、それが事故になり下手をすれば身体機能が不十分なその子どもの死を招く、それが家庭でたったひとりのケア担当の親の元で実施されているという異常さは別にして。

でも、息子が何かしでかしても、そのご迷惑をおかけした先に電話で謝罪しなくて良くて、娘が吐いたものを片付ける事もしなくてよくて、鼻から25cmのNgチューブを胃に通して留めて挿管の確認をしてという技術を一切覚えず、あの暴れる娘を押さえつけて実施する手技を含めた医療的ケア全般全部を結果的に全部妻の私に押し付ける形で、娘②が生まれる前の日常を続けていられる夫を

私はとても憎かった。

その頃の私は感情のコントロールや、日常生活の優先順位の取捨、その管理が全く以て不能になっていたのだと思う、その辺は実のところ今もちょっと自信はないが。

まだ姑息手術と言われる、細い人工血管一本を入れただけの不安定な肺循環で生きている娘②を思い切り肩に力を入れて育てているこの道程、夫に何を任せて共闘してもらうのか、彼は彼で、どうしても母親の方に偏りがちな娘②のケア全般の訓練を病院で受けたことが無く、日中娘②に触る回数も少ないが為にどうしても何をしても危なっかしい、抱き方ひとつとっても、薬の注入も、見ていて怖い、それでイライラした私がすぐ娘②を彼から取り上げてしまう、だって何か起きたらどうするの、誰が大学病院に連絡して救急に連れて行くのそれ貴方は出来るのわかるの。

私は、娘②を育てていて諦めた事や生活の中で切り捨てた事が沢山ある。沢山ありすぎてもうこれ以上何を棄てていいのか分からなくなって、それで娘②を目の前にして恐々その顔色の悪い乳児に触ろうとする父親である夫が憎いと思うようになった。

普通に育てて大きくすること自体が難問の子を持っていても普通に社会に出て働いて友人もいて何なら外で飲んで帰って来る事もできる夫が。

ただその感情を、3人も子が居て夫婦をやっているのに「夫が憎い」という歪んだ感情を保持し続けるという事は、この難関で難問の子ども達を家庭においてひとりで育てるという結果を産んだ。

この頃の私はすぐ感情的になり、すぐ泣いて、突然黙り込んで、夫から見てもかなりおかしかったと思う。

でも誰も頼れなかった、日日の事に追われすぎて誰に何をどう頼んでいいのかわからなかったし人に何かを頼む位なら自分で全部やった方が早いと思っていて

そしてだんだんとおかしくなっていた。

3・彼岸に行かないために

自分がどんどんおかしくなり、そして何より、彼岸に誘う声が、これは希死念慮と言われるものだろうか、それにいい加減疲弊してきたころ、私は一度その手の病院に言ってこれを何とかしなくてはと思い至って、娘②のリハビリの時間、訪問看護の時間をやりくりして近所のド本気の精神科病院への受診を決めた。

ここで本来、娘②の体調管理と共に私のフォローに入ってくれている筈の訪問看護師を頼らないあたりがもう狂っていると思う当時の自分は、暗い海に溺れていて目の前に立派な救助船があったのにざわざ浮き木を選んで己の力のみで岸を目指したのだから。

その時、街のメンタルクリニックとか心療内科のような個人医院を一切眼中に入れなかったのは「大きい病院なら専門医を沢山抱えている筈、それなら早急に診てもらえる」と思ったからだ、そしてそれはこの時、結構正解だった。

その決断ができたのは、そして受診を急いだのは、誰かが心配してくれたからでも、私の異常に気付いた誰かが病院の紹介をしてくれたからでもなく

連休の影響でリスケになっていた娘②の手術日程が正式に決定したからだった。

娘②の命を預かる小児循環器医の主治医と、小児心臓外科医の執刀医はこの時も今も私達親子にとっては誰が何と言おうと神だが

その神が

「5月13日に入院、5月20日オペ、決定で」

そうおっしゃったからには万難を排して指定のその日に病院に娘②を連れて行かなくてはいけない、この時、娘②1歳5カ月、その1年5カ月を支え続けてくれた先生方とその後ろに控える看護師、コメディカルの方々のこれまでの献身と苦労だけは絶対に何があっても裏切りたくなかった。

患児本人の体調不良ならまだしも、その付き添い役の母親の体調不良、鬱状態でオペの日程変更など絶対にできない、そのためには早急にこの彼岸に誘う死神みたいな負の感情と縁を切らなくては、それは1度目の手術から1年超、ふつうの倍待ち続けたこの手術の日の邪魔でしかない。

娘②の重い心臓疾患は、私を彼岸に誘う最大の原因の一つであると同時に、私を此岸に引き留める最大の要因でもあった、この子の命を何とかするまでは絶対に死ぬことなんかできない。

それでその病院に受診を決めた、かの診療科の名前のもつ印象とは裏腹に白く清潔な建物とその時盛りだったツツジの花の植え込みの美しい病院に、受診の原因たる娘②を抱っこ紐に放り込んで。

この時すら、私には娘②を誰かにどこかに預けるという事が、その発想自体が出来なかった。

4.余命宣告する精神科医

精神科のみの診療をしているその病院に到着して、受付を済ませ、精神保健師の簡単な問診、既往歴、家族の事、受診の動機、それを受けた私は、今日までの来し方何が辛くて、今どんな状況か、その今抱えている状況がどれくらい自分の手に負えなくなってしまっているのか、そして何より今自分自身が自分を持て余しているという事を口に出して一気に説明してしまうと。

改めて、むしろ初めて自分が辛くなって哀しくなって涙が止まらなくなってすごく困った。

なにしろ、行政が本気出して作った精神病院なので、そこには本当に色々な人が居て、それは失礼を承知で言うと街中であったらちょっと怖い感じの人たち、例えば、壁に向かって何かずっと話している人もいたし、JR東海道線の車内アナウンスを延々真似している人もいたし、何かに興奮して奇声を発している人もいたが

「退屈だからおろせ」

とグズグズ言う乳児を抱っこ紐で抱えて、滂沱の涙を流して待合室に立ち尽くしている中年女性は私だけだった、だって座ると娘②が怒って泣くので、とは言え場所が場所だけに特に誰も

「どうしました!?」

と言って駆け寄ってきたりはしない、どうかしているから来ているのだから皆ここに。

そう思うと何か哀しい場所だなと思って余計涙が出た。

その泣きすぎの中年女を迎え入れた診察室の主治医は、まず鼻からNgチューブを垂らした娘②を見て

「この子、どうしました?」

と聞いた、ちょっと待って先生私の診察では。

しかし医師に聞かれた事は正確に正直に話さなくては、私はこの娘②が結構に重度な心臓疾患児であること、出生から数か月の入院生活と手術を経て退院し、現在は滅法手のかかる医療的ケア児であること、そしてこの子を無事に育てるために気を張り続ける毎日が私の精神を削り続けている事、それでもこの子に何かがあって突然手元から消えていなくなるようなそんな日が来ることが何より恐ろしいと思っている事。

あと、私がひとりである事、ひとりでこの子を生かしてもう1人、手のかかる息子を育てている事が辛い事を

物凄く支離滅裂に話したのではないかと思う。

勿論自分をひとりにしてしまっている原因の大半は自分にあるのだがそれはさておいて。

この日、精神科医A先生は私のかなり話の飛ぶ難解な娘②の疾患障害その他の説明を

「僕、循環器の事は全く専門外だからお母さんの言っている事が微妙にわかってないのかもしれないけどさ」
「その…この手の子ってそんなにお母さん一人で何とかしないといけないもんなの」

精神科医として、循環器系の疾患児をあまり見た事が無いという先生は私の話にうなずきながら「貴方の負担の原因になっているこの子のケアについては行政とか福祉のサービスで軽減する事は出来ないものなの」と聞いて来た。

誰が聞いても私の精神的な不調の原因はその日そこに抱いて来た娘②、その時は床に放たれてその辺を徘徊していた乳児なのだから当然だろうが。

その答えとしては

「無い」

この一言に尽きる。

特にこの娘②はこの当時、医療的ケア児だけれど自分の意思で動く事が可能、経管栄養離脱のリハビリの道半ば毎回注入と食事のタイミングや内容に微調整が入り、愛着障害かと疑う程母親の私への執着が強すぎて片時も離れない離れるとチアノーゼを起こすまで泣くという、3拍子揃った

「預けられない子」

だった。

その上娘②の病態障害その立ち位置が微妙すぎて彼女を丸ごと任せられる施設は私の居住する地域にはひとつも無かった、障害の程度を鑑みても障害や疾患のある子を一時的に入院という形で預かるレスパイトケアの対象でもない、だって病気と言えども元気なんだもの自力で動くんだもの。

そのあたりを鼻水をすすりつつ、娘②が先生の周りを這いまわるのを止めつつ説明するとA先生は、多分私にわからないように軽くため息をついて、いや丸わかりだったけれど

「そうかぁ~」

「お母さんは、その抑うつ状態、健忘症状、あと自覚してないけど眠れてないでしょ、それから考えて適応障害だと僕は診断します」

「これは鬱みたいにずっと持続するものじゃなくて、そのストレスを与えているものから離れてしまえば症状は緩和して治まるものなんだけど、お母さんの場合は…」

「子どもですね」

私は娘②があまりに床を這いまわるものだから、もう一度抱っこ紐に放り込みながらそう答えた。

娘②は嫌がって暴れたが致し方ない、だって床を舐めるんだものやめて感染症厳禁の疾患児の癖に。

「お子さんから、離れる訳にはいかないよね…制度も施設も微妙に無いんだよねぇ~あ、でも近々入院する予定なの?その時は?」

「24時間付き添いです」

「え…」

そうなの?幼児ってそういうもんだっけと言いながら先生は、これは医師としてじゃなくて僕も父親だから言うけどさと言いながら

「24時間医療的ケア児に張り付いてるんだよね、その間に家事してあと2人お子さん…あ、1人は発達障害児ね、主治医は?K先生かS病院ね、そういう子も育ててるんだよね、そんなの普通無理だよお母さん死んじゃうよ」

精神科医、突然の余命宣言。

やめろ、此岸に必死にしがみついている人間になんてことを。

それでも、それは精神科医としてのカウンセリングの技術なのか、A先生個人の本気の心情の吐露なのか、あの一歩間違えれば問題発言もいいところの

「お母さん死んじゃうよ」

はほんの少し私の心を軽くした。

そうか死んじゃうのか、医師免許を取得している人間をしてもこの状況はハードなのか、私は相当頑張ったのか、それで適応障害とやらになったのか。

おかしなもので、私の健忘症状とか、抑うつ症状とか、希死念慮とかそれまで私を悩ませてきたものに名前が付いた瞬間、もちろん何も解決していないし、このまま打つ手がなくて娘②の状態がもっと悪くなってもっと自分が自分で手に負えなくなったらどうしようという杞憂からは一切逃れられてはいないのに。

何かスッキリとした感情があった。

もう来るところまできた。

自分は今、ものすごく惨めで哀しい母親なんだというあきらめみたいなものが。

5・手術の日に

ところで下世話な言い方ではあるが

人間ケツをまくると強い。

健忘症状があっても、すぐ涙が出て来ても私は病気なんだから仕方ないんだ。

先生が「もし本気で辛くなったら」と処方してくれたお薬と、隔週で予約されたカウンセリングの予定を携えて、娘②を無事に小児病棟に入院させた5月13日には、私はそれなりに落ち着いていた。

相変わらず

「死にたい」

もう口癖になった言葉は口の端から漏れ出たし、娘②のミルクの調合は

「え?今何杯目?」

という事が2回に1回はあってもしかしたら矢鱈とカロリー過多なミルクを調合していたのかもしれないが。

ごめんすまん娘②。

入院していつもの主治医先生、若手の担当医先生に娘②の体調管理を預け、看護師がかわるがわるバイタルを血圧を娘②のご機嫌を伺いに来てくれる環境で前回の長期入院以来久しぶりに

「ひとりで娘②の命を守らなくていい」

という場所にいる事は私をにわかに安心させた。

入院して安心するというのも変な話だが、オペ前入院というのは患児は体調自体万全であるものだし、その上予定の手術のその日の為に周りは兎角気を使ってくれる。

手術を担当する小児心臓外科のK先生はいつも通り優しくて、娘②ちゃんの体重も体調も十分、お母さん本当に頑張りましたねと言ってくれて、予定通りのオペの日、いつも陽気な担当看護師Mさんと手に手を取って手術室に娘②を見送った5月20日。

前胸部、そして胸骨を切開し、この時は心内、心臓の中を開ける手術ではなかったものの、前回の手術から1年、癒着の程度の酷かった心臓の周りとその狭窄具合が最後まで懸念された左肺動脈の切開による拡張の為に予定の7時間を4時間超過して11時間でオペは決着した。

「この後24時間がヤマですが、予定の処置はすべて終わりました」

この時「手術室前待機は両親揃って」という決まりの元、夫と2人、11時間を手術室前で待機していたが、私たちは取り立てて話もしなかったし、別段オペ室の中にある娘②の心配を互いに口にしたりしてもいなかった。

それは、既に生後3ヶ月の折、10時間越えの手術を経験していて一旦手術室に我が子を見送ってしまえばもう親に出来る事は何一つない事を知っていたという事と

やはり私にとってこの前回の手術からの1年は私ひとりの戦いで、夫は関係が無いと思ってしまっていたからだ。

その点は夫もわかっていたと思う、自分もそれなりに出来る事はしてきているのに、妻がそれを受け入れていない事も、自分にものすごい悪感情を持ち続けている事も。

この夫に精神科で『適応障害』であると診断された事を告げた時も特別な言葉はなかった。

私達夫婦は手術室で今まさに不完全な心臓を相手に長期生存を賭けて戦う娘②を前に、別の面で娘②の疾患に大敗していた。


生かすことが難しい子どもを夫婦力を合わせて育て上げるという事に1年目にして負けたのだ。

疾患のある子を障害のある子を夫婦ふたり『共に力を合わせて』育てるという事は何て難しいんだろう。

娘②に頑張れ、お母さんはここにいるからねと思いながら、そう思っていた。

6・大丈夫と思う事。

この娘②はこの5月20日の術後からわずか3日でICUを離脱し、その後小児病棟の集中ケアユニットであるPICUもものの数日で、末梢ライン、ドレーン、CVCカテーテル、ついでに産まれて1年5カ月、自宅で言語聴覚士がついて死ぬ気で努力したリハビリでもついぞ抜く事が出来なかった経管栄養用のNgチューブまであっさり離脱して一般病棟に移った。

長年臨床で小児循環器医をやっている主治医のY先生は後に

「俺、グレン手術からあんな立ち上がりの早い子は初めて見た」

と言った、それ位凄かった。

お陰で私は、精神科のカウンセリングの予約をすっぽかすことになる。

カウセリング予約の時、予定ではまだICU預かりで、面会時間に制限のあるその時期に1人でカウンセリングに行き、その足でICUに面会に行くはずだったのだが。

そして、予約日に変更があれば即連絡するはずだったのが、何しろもともと健忘症状著しいこの患者こと私はその予定の日も変更連絡の決まりもすっかり忘れてしまっていた。

術後即、人工呼吸器を自己抜去しようとした娘②は「娘②ちゃん、元気だから小児病棟に戻りましょう...」という執刀医の諦めに似た一言で早々に4階から5階の小児病棟に帰還を果たしてしまったので。

たった3日だ、前回は10日は逗留したというのに、先生方も「2週間..そのくらいかかるよ」とか言っていたのに、何が2週間ですか先生。

そして面会時間一回数十分のICUとは違って、午前11時から夜20時まで付き添い可能なPICUで、この末梢ラインを抜け、首から出ているこの管は嫌だ、ベッドからおろせと我がままばかり言う娘②に付き添っていた私は、その付き添いの日々、不愛想で雑で怖いひとだとばかり思っていた主治医のY先生が、夜、ナースも付き添いも居ないと思ったのか突然娘②に相好を崩して話しかけるのを目撃したり、あと何より朝の外来直前、本来なら若い方のサブの担当医に任せた筈のシリンジポンプの薬品管理を結局任せ切れず駆け足で自ら調整に来て、挙句慌てたのか背後ベッドのワゴンの上にあった膿盆をひっくり返し

「あ、ごめん、何か落とした」

とナースにあやまったりしていたその時何故か突然

「あ、何か大丈夫かもしれない」

と思った。

何がどう大丈夫なのかは全然わからない。

ただあの沈着冷静で、過去娘②が心停止をしでかした日も眉ひとつ動かさなかった主治医が、慌てて床に転がしたステンレスの膿盆の金属音と共にそう思った事は明確に覚えている、その日先生が珍しくネクタイを締めていて、着ていたボタンダウンのシャツが薄い水色だったこともはっきりと。

それで私は突然とても精神健全、明朗な性格に

なったわけでは全然ないが、5月の半ばから入院して半月、1人で娘②を守らなくていい環境と何より、執刀医の腕と、主治医の渾身の術後管理と、娘②の生来持っていた心臓以外の臓器のポテンシャルの高さが生み出した「驚異的な回復」が、私を彼岸へ渡る願望よりも此岸にしがみつく執着を強くさせたように思う。

この子は私がほんの少し気を抜いても、もしかしたら大丈夫なのかもしれない。

もし何かあっても、その辺のものをひっくり返すくらい慌てて娘②の為に駆けつけてくれるこの主治医がいてくれる限りは。

私をこの時1番精神的に支えたのが夫じゃないあたりが私達夫婦の関係の脆弱さの極みと言ったところだがそれは仕方ない、だって夫も私も小児循環器医ではないのだし。

娘②は主治医が予測した入院期間を半分の期間で退院したその日、経管栄養の代わりに酸素ボンベを背負う事になったがそれでも元気に自力で歩いて病棟を後にした。

とは言え、私は今でも大切に、精神科医のA先生から処方された薬をお守りとして持っているし、精神科の領域の「治る」という表現はどういうのものなのか、完治か完解か快癒か、そういう事は一切言われていない。

お陰ですぐに何か無くすし、日常的に何か溶かしたり壊したりするし、失念が酷すぎて関係各所に迷惑はかけ通しだが、これは元来の性格故なのかどうなのか、兎に角何とか諸々の症状に折り合いをつけて生きている。

夫は、幸い今でも私の夫で3人の子どもの父だ。

娘②の父親をやって今もう2年5カ月、あの2度目の手術から1年を経て娘②を連れて出かける事はできるようになった、今日は娘②と外にタンポポを摘みに出かけている、外出用のポータブルの酸素ボンベを持って。

相変わらず不器用過ぎて酸素ボンベの付け替えとかそういう事は全然できないが。

そう、この夫、それ以前に病的に不器用で娘の髪の毛ひとつ結ぶことができない。

もう、医療的ケア以前の問題。

次の手術は来年の冬になる。

娘②の最後の大一番のその時は、待機する手術室前の待合室でもう少し、疾患児を守ってきたふたりの親としての会話が出来るといいなと思っている。

そして

「お待たせしました、無事終わりました」

いつも自ら手術の終了を小走りで告げに来てくれるK先生をふたりで迎えたいと思う。

そうであってほしい。

そうでありますように。




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