冗談を言う能力って意外と大事、という話。
冗談を言える能力って意外と大事なんじゃないか、ということを思うことが最近多いです。
会社でも家でも、コミュニケーションって非常に大事だと思います。
例えば仕事で考えると、ちゃんとポイント(要点)を的確に言えるとか、優先順位をつけて実行できるとか、色々あると思います。
ただ、そんなことよりも、というかその前段階として、そういうコミュニケーションに至るまでの素地を作っておく、ということがはるかに大事だと思うことがあります。
むしろ、この素地ができていれば、多少ポイントのずれた説明でも聞いてもらえるように/聞きたいと思うようになると思うし、理解の促進も進むように思います。
この素地を作るのが何か、というと「冗談を言える」能力かな、と思うことが良くあります。
画一的でない
まず、第一に、冗談をいえる、あるいは冗談がわかる、ということは、物事を画一的な見方をしていない、ということになると思います。
冗談というのはだいたいが、いわゆる「普通」からずれていることから生じるのだから、
冗談が言える/わかるというのはまずはいわゆる「普通」が頭の中にインストールされていて、
さらにそれを飛び越えて、少しずれた方向から、物事を指摘できることなのだと思います。
つまり、冗談が分かるということはその時点で、複数の視点を持っているということが言えるのだと思います。
複数の視点を持つということは、何でも決まり決まった考えではなくて、「いや、こうも考えられるな」と思えることです。
そう思えると、実は「普通」を相対化できるように思います。
「普通」を絶対化するからしんどくなるのであって、「普通」は「普通」として、ちょこんとそこにおいておく。
自分も自分として、また、ちょっと違うところにちょこんと置いておく。
この「普通」も「自分」もその時々に応じて柔軟に移動したり、変形したりするのでしょう。
その可動域がいわゆる「柔軟性」なのだと思います。
なんでも受け入れることを「柔軟性」と勘違いして、それを強要する人もいますが、それもまた「普通」の押し付けです。
ポイントがわかる
第二に、冗談が言える/わかるというのは物事のポイントが分かる、ということだと思います。
お笑いなどを見ていても、「そこじゃないやろ」というところを執拗にいじることで笑いにもっていくこともあると思います。
つまり、先ほどの「普通」と同様に「ポイント」とそれ以外をちゃんとわかっているんだと思います。
逆を言えば、ポイントが分からないと、その「ずれ」の面白さは分かりません。
家でも仕事場でも「そこじゃないところ」に執拗にこだわり、精度を上げたりしている人を見かけます。
本人は一生懸命なのでどうしようもないのですが、冗談のわかる人からすると「違う井戸ほってるなぁ」。
いわゆる「手段の目的化」になっていたりします。
おそらく、ポイント以外のところで一生懸命になってしまう人は自分の客観視がすこし苦手な人なのかな、と思います。
そういう人は、あとになって、「こんなに頑張っているのに。」となりがちなので
井戸をせっせと掘りながらも、いつも「ここでいいのかな」とも感じながら、冷静にやっていけば後で変な状態になる前に方針転換ができるのでお勧めです。
面白く
第三に、冗談が言える/わかるというのは、物事を面白くとらえられる。ということがあるとおもいます。
冗談が言える/わかる人は愚痴を言いながらもそれ自体を楽しむコンテンツにしていたり、しょうもないことを上手く使いこなしているように思います。
よく「ものごとの良い面をみよ」みたいなことも言われると思いますが、しょうもないことはどうひっくり返ってもしょうもないこともあるので、
なんでも「良い面を見るのだ!」と自分に課して、頑張らなくてもいいと思います。それはまた、自分がんじがらめのみちへ入口なので要注意です。
もっと考え方を変えて、これを面白い話のネタにするとか、それを変えるためにチームを作るとか、そっちに行くことでもっと生産的になる気がします。
自分は漫才師でもないですし、コメディアンでもありませんが、
仕事ができる人は総じて冗談がうまいな、とおもいその要素をまとめてみました。