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この場所が私にとって特別な理由【ホームシック衛星2024 地方2公演を経て】
BUMP OF CHICKENのリバイバルツアー、ホームシック衛星2024。初日の神奈川・Kアリーナ公演に続き、広島グリーンアリーナの2日目と、福岡マリンメッセの2日目に行ってきた。
1つずつライブを振り返って文章にする方がお行儀は良いのだろう。でも、広島公演のあとなかなか時間が取れず、あっという間に福岡公演を迎えてしまった。
今、私の中で神奈川・広島・福岡の3公演が密接に、1つのストーリーとして不可分な状態になっている。ここにきて公演ごとに記事を分けて書くのは、もうその方が嘘になってしまうような気がした。
だから初日の神奈川公演について2月末に書いた記事を踏まえて、そこから私とBUMPの音楽との関係性がどう変化していったか、私にとってホームシック衛星がどういうツアーだったか総まとめするような文章を書きたい。
初日の神奈川公演で感じたのは、正真正銘今のBUMPが、正真正銘のホームシック衛星を、今の私に届けてくれたこと。叶わないと分かりつつも、私がずっと捨てきれなかった「ホームシック衛星に行きたい」という願望を、期待以上の形で叶えてくれたこと。
望んでいた場所に戻って来れた充足感。自分の部屋で1人、ヘッドホンで曲を聴いているかのような安心感。他の観客も、バンドメンバーさえもそこにはいなくて、自分と曲だけがそこにあるような没入感。
ホームシック衛星は私にとって、あと少しのところで手が届かなくて、手が届かないままずんずん離れていく、帰りたくて仕方ない場所だった。
神奈川公演と広島・福岡公演で最も大きく違うのは「ホームシック衛星は私がずっと帰りたかった場所だ」という明確な認識を持ってライブに参戦した点だ。「ここは私のホームだ、帰りたい場所なんだ」という意識を持ってライブに臨んだ。
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「星の鳥」のSEから「メーデー」へ。この場所で出会えた喜びを爆発させるような熱気と、でも「これは奇跡ではなく必然なのだ」という覚悟が入り混じるような、そんな静かな祝祭感が会場全体から放たれていた。
そして2曲目の「才悩人応援歌」。BUMPの楽曲の中でも、シビアで冷静でひねくれていて、熱くてストレートなメッセージ性が魅力の1曲。3番のAメロの、藤くんのしゃがれさせた声で叫ぶ、ライブでの歌い方が私は大好きだ。この日はもはや、歌っていなかった。思考も感性もエンタメ性も一切消え去り、心の底から震え上がるような怒りだけが、そこにあった。
それが1つのスイッチとなるように「ラフメイカー」「アルエ」「ハンマーソングと痛みの塔」「ひとりごと」と続く。生きることと隣り合わせの、日々感じるどうしようもない痛みを持ち寄り、吐き出す。そして本当のことだけで確かめ合い、お互いを称え合うような時間だった。
そして7曲目に演奏された「花の名」。
あなたが花なら 沢山のそれらと 変わりないのかも知れない
そこからひとつを 選んだ 僕だけに 歌える唄がある
私とあなたがこうして存在して、音楽を通して繋がること。あなたがそうやって発した音が、こうやって私のもとに聴こえて、このようにして私の心に届くこと。その不思議さと、そこに宿る力を歌い上げた曲だと思っている。
丁寧に奏でられる一音一音に、心の糸をぐいぐいと手繰り寄せられていくようだった。そして曲のクライマックスに向けて、たたみかけるような歌詞変えを目の当たりにして、私は呆然と立ち尽くしていた。
藤くんにたたみかけられて、呆然と立ち尽くしていたのだから、アレンジされた歌詞の内容を全く覚えていなくても許して欲しい。
「誰かが出した音が私の耳にこのようにして聴こえて、それに感動していること」「この人たちが出した音を聴きたいという想いで、ここまでやってきたこと」。そんな「音楽の不思議」を訴えかけるような、そんな姿が私の目には焼き付いている。
そして続く「飴玉の唄」のあと、サブステージに移動し「東京賛歌」「真っ赤な空を見ただろうか」「かさぶたぶたぶ」と続いていく。「花の名」で感じた音楽の不思議さは、そのまま「生きていることの不思議さ」へと広がっていく。
私が私として、この場所に生まれたのはどうしてだろう。私と誰かが一緒に生きることの不思議さ。自分で選んだ覚えはなくても、自分が生きているのは確実に自分が望んでいることだということ。
彼らはそういうことに全力で向き合って、全身全霊で音楽に込めてきてくれたバンドだと思う。私と一緒にそういう不思議さと向き合い、向き合うことを肯定し、高らかに歌い続けてきてくれている。
そんなBUMPが続けて演奏してくれたのは「望遠のマーチ」そして「ray」だった。このライブでこの2曲だけ、ホームシック衛星が最初に行われた2008年以降にリリースされた曲だ。
だからということもないとは思うのだけれど、この2曲は私の中で、少し特別な立ち位置になっている。
その理由は、観客が斉唱するのがおなじみになっている部分にある。「望遠のマーチ」の<行こうよ>と<希望 絶望>、そして「ray」の<生きるのは最高だ>。
2008年のホームシック衛星から、今のホームシック衛星の間でBUMPが手に入れた、まさにキラーフレーズである。そしてそのフレーズが、バンド側からではなくリスナー側から発されることに、バンドとしても、多くのリスナーにとっても、大きな意味があると思っている。
このキラーフレーズを、「ずっと帰りたかった自分のホーム」で、私自身の口から発することが出来た。それは私にとって、今までのライブとはまた違った重みを持って残るものになった。
生きていると「世界はどうしてこうなんだ」と、悪い意味で不思議なこともたくさんある。自分が生きることに疑問ばかり湧いて出てくるときだってある。
それでも、ここでこうしてBUMPと会えるのなら。生きることの不思議と本気で向き合い、不思議だと思う心を高らかに歌い上げ、音楽として私に届けてくれる人と、こうして出会うことができるなら。分からないことを分からないままにして、一歩踏み出してみてもいいんじゃないだろうか。
不思議なことを「不思議だ!」と思う心はここに置いておいて、明日からは自分がありたいように、自分らしく生きていこう。そう心に決めながら、深呼吸と一緒に背伸びをするように、BUMPと出会えた嬉しさを体いっぱいに感じていた。
そして一番大切なのは、今まで書いてきた思考や感情が全部、私のホームである「ホームシック衛星」の中で起きたということだ。
「今一番近くにいる」ことこそが、このツアーを「ホームシック衛星」たらしめていることの証なのではないかと思う。
BUMPのライブで足がガクガク震えたのは初めてだった。「ここは私の帰る場所」という安心感と充足感の中で、「不思議さに囚われるのはやめよう」「ちゃんと私がありたいように、私らしく生きよう」と、心の中から湧き出てきた。
その決意の重みは、ホームの安心感と充足感で伸びきり、開き切ったやわらかい心には、あまりにずしんと響いて揺れた。
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広島のごはんはなんだか優しくて癒されました。
広島公演から福岡公演までは2週間ほど。あっという間だった。
とはいえ、この世の中で2週間も生きていればいろんなことがある。あれほど本気で願った「私がありたいように生きる」という決意も、思い通りにいかないことばかりの日々に、揺らぎ、見失う。私は情けない気持ちまみれで福岡公演に臨んだ。
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本編は広島公演と同じセットリストだった。でも、曲の響き方も届き方も、明らかに違った。そしてそれがすべて、今まさに私が求めているものだという感覚が確かにあった。
例えば1曲目のメーデー。広島公演では「静かな祝祭感」と表したが、福岡公演はもっと動的な、うねるような喜びが会場に満ちていた。
どの曲にも、ツアーの本数を重ねて変化していることは当然あるだろう。「土地柄」みたいなものもあるのかもしれない。そういう要因も全部ひっくるめて、私が今日ここに来る必然性、みたいなものを感じる場面が、何度も何度もあった。
この曲が今このときに、今のBUMPによって奏でられること。今の私にこの曲が伝えようとしていること。1曲1曲、1音1音にBUMPの想いがこもっていて、それがまさに今の自分が求めてやまないものであること。そんな嬉しさを抱きしめていた。
広島公演で、たたみかけるようなエンディングの歌詞変えに「音楽の不思議さ」を感じ、圧倒されていた「花の名」。荒れ狂う大海原を目の前にして、なすすべなく棒立ちになるしかない、そんな気分だった。
福岡公演では、その大海原に自ら身を投じ、心地よく体を委ねているような感覚で聴いていた。水中では息ができないはずなのに、冷たく暗い海の中のはずなのに。水圧で押しつぶされて苦しくなるということもなく、その水圧がむしろ温かい何かにぎゅっと固く抱きしめられているようで、心地よかった。
そして「ray」の「生きるのは最高だ」をもう一度、ホームシック衛星で歌える。広島公演よりもう少しうまく歌いたいと思って臨んだ。自分のホームで、生きることを肯定するモーションができる。それは所詮エンタメの中のパフォーマンスに過ぎないとしても、私にとっては大きな意味を持つ行動だ。
やっぱりあまり上手く歌えなかった。ライブ序盤から心のバリアをボロボロと剥がされ、噓のつけないまっさらな心にされていたから、なおさらかもしれない。どこか本気で歌えていない自分がいて、しっくりこなくて悔しい。
きっと、噓偽りのない自分を見つめるときが来ているんだなあ。まだ向き合えていない傷が自分の中にあること、そこに向き合うことが今必要であること。「かさぶたぶたぶ」という、一見ユニークだけれど切実で深くて、だけどやっぱりどこかあっけらかんとしている生命賛歌を聴きながら、決して悲観的にならず、そんなことに気付かされた。
最近なんだかくよくよしていたけれど、私はちゃんと、私がありたいように、私らしく生きられる。BUMPの音楽がそばにいてくれるのだから。私は私のままで、きっと大丈夫。福岡公演で感じたことは数え切れないほどあるが、一言でまとめるとそんな感じ。
「生きるのは最高だ」と上手く歌えないけれど、でもこれが今の私の本当だし、今の私がどんなに情けなくても、BUMPの音楽は受け止めてくれる。本編が終わる頃には、「ray」で感じた悔しさが安心感に変わっていった。
「生きるのは最高だ」と上手く歌えない私は、きっとこれからもBUMPの音楽に力を借り、少しずつ自分を知り、世界を知り、生きていく。私にとってBUMPのライブに行くことは、その事実を確かめ、自分の変化を振り返る時間なのだと思う。
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友達と何度も口ずさみながら那珂川ぞいを歩いたの、いい思い出。
BUMP OF CHICKENの音楽を特別に思うこと。その理由はきっと人それぞれにある。私の場合はこの記事で書いたようなことだったけれど、きっと100人いたら100通りの意味がある。そして、その1つ1つがすべて、しっかりとBUMPと繋がっている。
リバイバル元である「ホームシック衛星」への思い入れや関わり方に関係なく、リスナー一人ひとりの中で、BUMPが特別な理由が、バンドとリスナーの関係性の中でより明確になるようなツアーだったのではないだろうか。
(私は直接目の当たりにすることは叶わなかったけれど)有明アリーナでのツアーファイナルで、藤くんが「70になっても、例えキーを下げて歌ってあんまりカッコつかなくても、やっぱり俺は君に会いたい」と語ってくれたこと。
このツアーで受け取った私の想いに応答してくれるような、そんな言葉だと思った。きっと彼らの中にも、私とはまた違った形、違った角度で、BUMPの音楽が特別であることについて、なにか明確にできたことが、きっとあるんじゃないかなと、そんな風に思う。
これからもBUMPの音楽が、末永く健やかに続くことを願っている。9月にはニューアルバム「Iris」のリリースと、ドームツアー「Sphery Rendezvous」が発表されている。タイトルだけであれこれ考えを巡らせるだけですでに楽しい。9月なんてきっとあっという間だ。
BUMPが作ってくれた「会う口実」を、必ず叶えにいこう。
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