Dhammapada 86・87・88
86
おおよそ、正しき法に基づいた者だけが越えがたき現世の誘惑に打ち勝つことができる。
87-88
賢者は俗世のことわりを捨て、まばゆき法に接すべし。安住を捨て、安易なる喜びを打ち棄てよ――こうして、より深き喜びを獲得し、欲望を捨て、己の心の垢をそぎ落とし、まことの智者となるのだ。
Ye ca kho sammadakkhāte,
凡是 但是 確實 正確 宣布
dhamme dhammānuvattino,
法 法 隨...動
te janā pāram essanti,
那些 人 彼岸 去
maccudheyyaṁ suduttaraṁ.
死天的領域 非常難渡
Kaṇhaṁ dhammaṁ vippahāya,
黑暗 法 徹底捨離
sukkaṁ bhāvetha paṇḍito;
白淨 修習 賢智者
okā anokaṁ āgamma,
住處 無住處 來到
viveke yattha dūramaṁ.
遠離 在此 難喜樂
Tatrābhiratim iccheyya,
在那邊 全面喜樂 欲求
hitvā kāme akiñcano;
捨棄 欲 無任何
pariyodapeyya attānaṁ,
使...遍純淨 自我
cittaklesehi paṇḍito.
心 污染 賢智者
But those who, when the law has been well preached to them, follow the law, will pass across the dominion of death, however difficult to overcome.
A wise man should leave the dark state (of ordinary life), and follow the bright state (of the Bhikshu). After going from his home to a homeless state, he should in his retirement look for enjoyment where there seemed to be no enjoyment. Leaving all pleasures behind, and calling nothing his own, the wise man should purge himself from all the troubles of the mind.
善能說法者,及依正法行,
彼能達彼岸,度難度魔境。
應捨棄黑法,智者修白法,
從家來無家,喜獨處不易。
當求是法樂,捨欲無所有,
智者須清淨,自心諸垢穢。
この「法」については、なかなか仏法から離れるのが難しそうである。とは言え相変わらず「書こうとすること」と設定すれば、まぁ話も通るのか。「書きたいこと」の純度が高まれば、そのぶん世の誘惑に打ち勝てる。現世の楽しみは現世の楽しみとして満喫すべきという姿勢を崩す気はないが、さりとてそれで書くことを毀損されすぎるのも、違う。
書くものにおける黒い法、と言う言葉はもう、くっそ明確である。「他者との比較」である。いいほうにも、悪いほうにも、比較をするだけ時間の無駄だ。違い、取り入れるべきもの、として見るならさておき、あれを羨む、あれを妬む、あれを蔑む、あれを見て安心する、などと言った全ての行いが時間の無駄である。ほどよい羨みや妬みはガソリンだとも思いはしますけど、長距離走ろうとするならどこかで自由になっとかないと、特に自分みたいなタイプの人間は疲弊する。
疲弊しない人もいるんでしょう。素晴らしいことです、ただその方法は俺にとっては通じないので。
より深き喜び、というのは、たとえば自分に訪れる「作品を作り上げた」喜び、であったりするのだろう。これは正直、発表した瞬間にどんどんと萎む。作り上げた喜び、がどうしても第一である。他者からの評価もありがたいものではあるのだが、作り上げたこと、と較べるとどうしても薄い。これももう自分はそんなものであるのだろう。そりゃそうだ、他人は自分そのものではなく、作品は解き放つ、その直前まで俺そのものだ。寄り添い、の濃さがあまりにも違う。ただし発表すると他人となる。これはもう仕方ない。ある意味で発表とは「別れ」である。荘子も言う。君之所読者、古人之糟魄己夫。お前が読むものは古人の残り滓だ、と。別れを告げることに怯えず、次々に新しいものに出会っていきたいものである。そして心をまた、喜びに満たすのだ。