『魅力的主人公』とは何か?
前回は、「テーマ」について考えた。
今回は「主人公」……せっかくなので「魅力的な主人公」について考えてみたい。
そもそも主人公とは、何者か? どのような要件を満たせば、主人公と言えるのか?
物語のアイコン、感情移入の対象、視点の担い手、物語の駆動者、テーマの体現者、一貫性を持ち、他の登場人物と関わる……
いくらでも思いつくうえ、これらは努力目標に過ぎず、例外は山とある。そのうえ、要件を精密に満たしたからといって、「魅力的」になるとも限らない。
とりあえず、物語の中心にいれば、主人公らしきモノとはなるだろう。では、読者視点から見た場合、どのような主人公に「魅力」を感じるのか。
本記事では、「読者に物語への参加を促す」ことこそが「魅力的主人公」の要件である、という切り口から考察を試みた。
まず、前提となる「物語への参加」とは何か?
ここ十年、インターネットの発達により、SNSによって番組や配信をリアルタイム実況したり、物語に対する自身の感想や考察を公開したりすることが可能になった。
これは、わかりやすい「参加」の例だろう。これらの現象については、以下の書籍に詳しい。
しかし、たとえば原始的な口伝。一族の長老が、たき火を囲んでストーリーを語るとき、聴衆たちはときに息を呑み、ときに歓声を上げただろう。
かの豊臣秀吉は、瓜畑遊びという演劇において、自ら主役として舞台に上がることを好んだと言うが、聴衆の一人である伊達正宗は気の利いた野次を飛ばし、大いに場を盛り上げたらしい。
これもまた、物語に対する「参加」だ。
たとえば、主人公に魅力を感じたとき、子供はゴッコ遊びという「真似」に興じる。大人であっても、日常生活のなかで、気に入ったキャラクターのセリフを引用する……といったことは、するだろう。
主人公がピンチに陥れば、あるいは一世一代の見せ場を目撃すれば、気の利いた読者は「応援」せずにはいられない。
また、主人公が思わぬ行動……突飛だったり、間抜けだったり、いわゆる「ボケ」をしたときに、読者が思わず「ツッコミ」を入れてしまうこともある。
読者の物語に対する「参加」は、インターネットとSNSの登場を待たずして、古来から存在した。あるいは物語そのものと、不可分かもしれない。
この点を踏まえて、もう少し考察を進めてみよう。主人公と読者の関係を観察すると、いくつかの軸が見えてくる。
まず、「疑問⇔納得」軸。これが物語のメインラインとなる。読者は、物語の序盤で「この主人公はどうなる?」と「疑問」を抱き、終盤で「なるほど。そうなったか!」と「納得」する。
読者は、内心の動きという形で物語に「参加」し、この軸はストーリーラインの骨格としても機能する。
次に、「期待⇔不安」軸。読者は主人公に対して「こうなって欲しい」という期待を抱きつつ、作中の障害やトラブルを目にして「本当に思い通りになるのか?」と感じる。
この軸が機能したとき、読者の内心の動きに加えて、先述した「主人公を応援する」という「参加」を誘発する。
さらに踏み込んで、キャラクター造形の内面に関わる軸について、触れておきたい。
ブロガーとしても活動しているしんざき氏が、「さすが⇔まさか」軸のカタルシスについて記事を書いている。
「まさか」のカタルシスとは、逆転、番狂わせの快感。「さすが」のカタルシスとは、実力者が期待通りの活躍をする満足感だ。
「期待に応えて予想を裏切る」は、脚本家である三谷幸喜氏の言葉だったか。
しんざき氏の語る「さすが」と「まさか」のカタルシスこそ、まさに「期待に応えて予想を裏切る」プロセスに思える。
また、「『テーマ』とは何か?」でも参照した「キャラクター創造論」において、憧憬型主人公と親近型主人公という軸について言及されている。
憧憬型は、強い、カッコいい、と言った憧れを抱くようなキャラクター造形だ。しんざき氏の言うところの「さすが」のカタルシスを体現する存在、と言っても良いだろう。
対して親近感型は、読者にとって身近で、投影や感情移入をしやすいキャラクター造形である。物語において親近感型主人公は、おそらく身に余る試練に直面し、それを乗り越える、「まさか」のカタルシスを実現することになるだろう。
そして、多くの場合、キャラクターとはどちらか二極にくっきりと分類できるわけではない。どちらに偏っているか、はあるものの配合比率の問題であり、大半の主人公は「さすが」と「まさか」、「憧憬」と「親近感」、正反対の魅力を内包している。
これらの対比軸は、「弛緩」と「緊張」であり、「同化」と「分離」であり、すなわち読者を物語のなかに引き込む「求心力」と、物語を客観的に認識させる「遠心力」である。
以下に、図としてまとめてみよう。
「遠心力」と「求心力」。魅力的主人公は、この二つのベクトルが適切な比率で配合されることにより、読者の物語への「参加」を促す。これは、先に述べた「予想を裏切り期待に応える」ための機序でもある。
「『テーマ』とは何か?」でも、物語という存在において、読者の存在は無視できない、と論じた。
SNS時代において、実況や考察という積極的参加は「コンテンツの宣伝」という実利的な側面もある。二次創作、オマージュといった高度な「参加」は、原作者にとってクリエイター冥利に尽きるだろう。
しかし、もっと根源的な問題として、物語がその本領を発揮するためには、読者自身が最後のパーツとして、自主的に参加する必要がある。
ここで言う「参加」は、もっと素朴で、根本的なものだ。すなわち、主人公に興味を抱き、その一挙手一投足に内心を動かし、ページをめくって、結末に納得する。
物語に興味を示した読者候補に対して、その手を取り、本物の読者として物語に参加させる……もっとも読者の目につく主人公にこそ、相応しい役割であり、この機能こそ「魅力的」の正体ではないか。
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