小説|三十七峠〔Part2〕
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高速道路を降りる直前、降り始めた雪は、N町に着く頃には本降りになった。
三十七峠に行くことは、奈々には伝えてきたが、出張とごまかして、薬を買いに行くとは言っていない。自分でも半信半疑なことを、彼女に話したら、今度こそ固く止められてしまうだろうから。
「半端なく、寒いな」
声に出した独り言が、口の前で白く煙る。
初めて来たN町は、ひなびたという言葉がぴったりの、とても寂しい街だ。コンビニでおにぎりでも買いたかったが、車を停めたコインパーキングからバス停までの間に、開いている店は見つからなかった。
仕方なく、自動販売機で缶コーヒーを買い、傘をたたんでバスに乗り込む。意外と多い乗客は、温泉郷へ行く人達と、雪山へ向かう登山者だろうか。1人がけシートの3列目が空いていたので、俺は身体を押し込んで座った。
それを待っていたかのようにドアが閉まり、バスが動き出す。
車内は寒く、ダウンジャケットを脱ぐことができなかった。手袋とマフラーは持ってきたが、ニット帽を忘れたことが、今更ながら悔やまれる。ダウンのフードを被れば、どうにかしのげるだろうか。
走り始めてしばらくは、車窓の向こうにいくつか見えた家々が、進むにつれてまばらになる。そして、20分も過ぎた頃には、色彩のない、山道の風景ばかりになった。予想していたより、ずっと暗い景色だ。
こんなところを、俺は歩かなければいけないのか。そう思うと、来てしまったことを後悔したくなる。
・・・弘樹。
諦めるわけにはいかない。
「俺の結婚式ではやっぱり、大輔のこと、兄さんって紹介するんだよな」
先月、2人で飲みに行った時に交わした、何気ない会話が、ふと頭をよぎる。
「そういうことになるな。俺、笑っちゃうかもしれねえよ」
「笑うなよ、絶対」
「自信ねえなあ。第一、弘樹だって俺のこと、兄貴なんて思ったことないだろ? 歳が同じなんだから」
そりゃそうだよ。てっきり、そういう返事が返って来ると予想していたのだが、弘樹の反応は違っていた。急に真顔になり、テーブルの上のグラスに目を遣りながら、彼は一言、こう呟いたのだ。
そんなこと、ねえよ。
「まもなく三十五峠、三十五峠バス停です。お降りの方は降車ボタンを・・・」
不意に、バスの中にアナウンスが流れ、俺の物思いを一気にかき消した。降車ボタンを慌てて押し、冷えてしまった缶コーヒーを一気に飲み干す。それと同時に、バスが止まった。
「こんなところで降りて、どこへ行くんですか?」
運転手が、いぶかるように尋ねてくる。
「あの、三十七峠の家に用事があって」
「ああ、たまにいるんですよね、そう言って降りる人。でも、冬に来る人は珍しいですよ」
気をつけてくださいね、帰りのバスは、2時半と4時半ですから。念を押す運転手にお礼を言って、バスを降りると。
そこは、上り坂の途中だった。
左側にも右側にも、雪を被った木々が、連なって立っている。視界に入るすべての色は、白と黒、そして灰色だけだ。道路は除雪されているのだろうが、それでも雪が積もり、アスファルトはまったく見えなかった。
おまけに、肺が痛くなるほどの強烈な寒さ。
でも、行くしかない。ここまで来たら、信じるのみだ。
ダウンジャケットのフードを被り、傘をさして、俺は慎重に歩き出した。
10分ほど坂を上ると、道路は分かれ道になった。
久し振りに青い色が目に入り、顔を上げた先に、小さな道路標識がある。道なりに進むと三十七峠、右に曲がると三十六峠とのことだ。
雪は、相変わらず降り続いている。
道なりの方が、道路の幅がずっと細い。おそらく、俺が乗ってきたバスは、ここで右折して行くのだろう。迷わず直進すると、ここより自家用車立ち入り禁止、という赤い文字の看板があった。
それを過ぎると、景色は再び、色彩のないモノトーンの世界に戻る。
勾配はさらにきつくなり、車が出入りしないせいだろうか、急に雪の厚みが増したような気がした。
進めば進むほど、足が重く、息が荒くなる。鼓動は速まっているのに、身体は汗ばむどころか、冷えていく一方だ。フードの隙間から入ってくる風の冷たさに、耳がちぎれそうに痛む。
せめて、降る雪が止んでくれればいいのに。傘をたたむことができれば、もっと楽に歩けるはずだ。けれど、頭上の雪雲は消えるどころか、さっきより灰色が重くなっている。
ああ、たまにいるんですよね、そう言って降りる人。
俺を支えているのは、意外にも、バスの運転手が言っていた、この言葉だった。
目的物など何も見当たらない、あのバス停で降りる乗客がいるということは、三十七峠の家は、薬はきっと、本当に存在するのだ。
息苦しさを感じながら、それでも必死で呼吸を繰り返し、足を動かし続けて、どれくらいの時間が過ぎただろう。俺はやっと、目印の分かれ道にたどり着いた。
〈←薬茶屋〉
昨夜読んだ、経験者のブログに綴られていたとおり、二股に分かれた道の間に道標がある。木の幹に打ち付けられた板に、黒のペンキで、くっきりと文字が記されていた。
「あった・・・」
無意識に飛び出した自分の声が、他人のもののように掠れている。
運転手の言葉に続く、2つ目のリアルな根拠。
目の奥が、ぐっと熱くなる。泣きたくなる気持ちが鎮むよう、大きく頭を横に振ってから、俺は左の道を歩き始めた。
※三十七峠〔Part3〕へ続く
この小説は、しめじさんの企画 #写真から創る に
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