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空區地車の力学 10.空區の地車について➀

曳き方の基本編が済んだところで、空區の地車について簡単にお話ししましょう。

地車と書いて「だんじり」もしくは「じぐるま」と読む

「だんじり」は、日本の祭礼に奉納される山車(だし)に用いられる西日本特有の呼称で、「地車」の他に「楽車」「壇尻」「台尻」「段尻」とも表記されます。

東灘の郷村の中心に神社があった
住吉には本住吉神社があり、その氏子が地車を所有していました。
本住吉神社の境内の車庫には、住吉の地車「山田」「呉田」「住之江」「空」「西」「吉田」「茶屋」の7台の地車が保管されていいます。さらに2017年から「反高林」地区が新たに地車を所有し、現在は8台で祭りが行なわれています。
※氏子(うじこ)とは、その地域の住人で、その土地の氏神におまつりをする人々のこと

反高林區地車(2017年撮影)
※東灘区HPより引用

謎の多い神功皇后が祀られる本住吉神社
神功皇后は、夫の仲哀天皇の没後、新羅に出兵し朝鮮半島の馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)の三韓を服属下においたと《三国志》に記載されています。
さらに《古事記》には、神功皇后が三韓征伐からの帰途に住吉沖の海が荒れ、その荒波の中から住吉三神「底筒男命(そこつつのおのみこと)」、「中筒男命(なかつつのおのみこと)」、「表筒男命(うわつつのおのみこと)」が現れたので、三神を鎮めるために建立したのが本住吉神社と記載されています。

三韓征伐の帰路ですから、本住吉神社の原型は小さな祠(ほこら)だけの簡易型だったのかもしれません。その後、波のおさまった大阪湾を進み、大和川を上って都のあった橿原に戻ったのでしょう。その大和川の下流が大阪市住吉区で、無事帰還した後なのでもっと立派な住吉大社を築いたのでしょう。
本住吉神社と「本」が付いているのは、全国各地にある住吉神社の総本家だよという意味ですが、《古事記》の注釈書である《古事記伝》の著者である本居宣長(1730~1801年)も本住吉神社の総本家論を支持していました。ちなみに平成20年に本住吉神社1800年祭が行なわれ、平成23年に住吉大社の1800年祭が行なわれています(なんとなく3年差というの絶妙)。
神功皇后は謎の多い人物で、123歳まで生きたといわれています。実在したのか、していなかったのか、今なお論争が絶えません。神功皇后陵は宮内庁管理なので発掘調査ができません。

奈良県奈良市山陵町にある「神功皇后陵」

住吉のだんじり祭りは、5月4日が宵宮、5月5日が本宮
かっての住吉のだんじり祭りは、旧暦の6月30日に行なわれていました。今の暦になおすと7月末~8月初にかけての夏祭りでした。明治初頭、新暦に変更された時に村役場の命により5月12、13日になり、その後、昭和の高度成長期に平日開催だと参加者が集まらないとの理由から、昭和42年に5月4、5日開催に変更されました。

昭和53年の空區地車、いまでも現役の方が写っていますhttp://www.danjirigoya.danjiri.info/dnjr/kaiko/s53higashinada/index.html
より引用

5月5日(本宮)にご心霊が鳴り物に合わせて神輿(みこし)に1日だけ降臨します。そのため5月4日は鳴り物を叩いて町中を地車で巡行して(宵宮または町曳き)、ご心霊が明日降臨することを氏子(うじこ)に知らせて廻ります。氏子は5日に神社に参拝して、日頃の感謝と共に無病息災や家内安全を願うのが習わしです。
いわば地車は町中に鳴り物で知らせる神輿の楽団的役割です。5月5日夜(宮入)には、ご心霊は地車の鳴り物に合わせて再び昇天されます。

5月5日の空區の宮入

空區の由来
「空」とは、2階立て住宅などで、神棚の真上に上層階があり神棚の上を人が歩くような場合は、「頭の上を踏みつける」ことを避けるため「ここより上は何も無い」という意味を表すために、神棚の上の天井に、墨で「雲」「天」「空」と書いた半紙を貼りつけます。

これと同じ意味で、空區は本住吉神社の上(北)に位置するので、神様に「申し訳ありませんが、ここは空です」という意味から空(そら)區と名付けられました。

神社のある地区を「宮本」と呼び、神社のある吉田區の地車は「宮本」を提灯にしています。宮本の東にある茶屋區は「宮東」。宮本の北にある空區の提灯には「宮北」と書かれています。

「宮北」の提灯

もう少しお話したいので、続きは次章にて、乞うご期待!

#神戸市東灘区 #空區地車 #空區

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