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空區若中の力学その67.地車との物我一体(もつがいったい)化

地車を曳くのか?
それとも、地車に曳かれるのか?
これは若中にとって永遠のテーマだ。
地車を「曳いてる」若中は、基本的に汗は掻かないし、
掻いても観客がいる場所でしか掻かない。
空區のユニフォームは黒の法被だが、決して塩が吹いて白く浮き上がることはないし、夜になってもアイロンを当てた折り目がそのまま残っている。いつも辺りをキョロキョロ見まわし、知人を発見するや手を振ったりしている。いわゆる己の勇姿を見せたいだけの輩である。
片や、地車に「曳かれる」若中は、地車が身体の一部になっており、宮入りで最高点に達すると神に出会える。地車と物我一体(ぶつがいったい。仏教語で他の人と自分が一つになり、他社も自分もない境地のこと)化しているのだ。

では地車の物我一体化は、どうすれば成せるのか?
言葉では表わしにくいが、とにかく汗を掻いて、掻いて、掻きまくり、もはや担げないという身体酷使の中で、光明の光のごとく脳裏に浮かぶ「この酷使無双(?)の状態で走るためには」との戦闘状態に陥った時に身体化が始まっていく。

ひとつのことに打ち込むと、人間は間違いなく多くの疑問と闘うことになる。考えているのに心はブラックホール化する。周りの空間を己の中に吸い込んでいくのだ。この境地を「無心」と呼ぶ。

身体を地車に密着し、地車の動きに合わせて呼吸する。ただし、神経は無意識のうちに前後左右に張り巡らされる。
自分の居場所の反対側は確実に見えないはずなのに、地車の動きや揺れを通じて見えてくる。
自分がどう動き、どう力を掛ければよいのか、地車との物我一体化が成し得た時、身体は地車と化し、地車に「曳かれる」境地に到達する。

とは言え、1年に2日間しか地車に触れることはない。プラスして数年間に一度は記念行事で地車に触れる機会はあるが、唯一、神と出会えるのは1年に一度、5月5日の本宮の1日だけだ。
それ故に、暴れたい、目立ちたいだけの輩には、何年曵いても到底地車と物我一体化は遥か彼方の話だ。

毎年5月5日 本宮の宮入の時のみ地車との物我一体化を成し得た者のみ神と出会える?

わかればわかるほど、わからなくなるのが地車。約50人からの若中が重さ4トンにもなる1台の地車を曳くのだ。やすやすと思い通りに曳ける訳がない。
一度、地車を経験すると、大抵、己の無力に心が凹む。凹むのが正しい若中道というもの。凹むことを体験しない若中は、何年かすると「仕事の都合で」とか何らかの理由をつけ、人知れず欠番になる。
それでも曳いている輩は、必ずケガをする。
油断や無謀よりも、凹まない若中の方がケガをする確率は数段高くなる。
集中、集中、集中。そして酷使、酷使、酷使。こうして得た物我一体化に喜びを感じて、以降何十年も地車から離れられなくなる。
江戸時代から始まったとされるだんじり祭り。憂さ晴らしができるからという理由だけでは、これほど多くの祭りバカ=若中を輩出できないだろう。

宮入り時、ほんの一瞬だったが神と出会えたのは私だけではない。私よりも大先輩の若中=年寄り(だんじり用語)、そしてそのまた先輩の英霊も存命時には神と出会っておられる。
もちろん平成生まれの若中の中にも、すでに神との出会いを体験した猛者もいる。

地車との物我一体化。地車に「曵かれる」喜こびを知ることになる若中が来年も量産されることを切に願う。
若中に幸あれ。I wish you good luck.