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空區地車の力学その69.空區の宮入りは神がかっている

かって空區の地車は住吉一の巨体だったが、最近は地車の巨大化が進み空區地車と肩を並べる地車も増えてきた。
そもそも地車は神社の所有物ではなく、氏子が作る氏子の所有物なので、地車小屋に入るギリギリの大きさにしたくなるのが人の性。

こうして大きくはしたものの、巨大ゆえに持て余すこともある。
例えば宮入り。
神殿の前まで進んだ地車の前を持ち上げ(前輪ウイリー状態)、3回上げ下げを繰り返し、そのまま前を持ち上げた状態で時計回りに回す。その間、前を下ろしてはならず上げたまま時間内可能な限り回し続ける。
しかし、巨大化した地車を落とさず、回し続けるのは至難のワザ。目方が軽い方が回しやすいにきまっている。
ここにきて地車に座る世話役はニッチもサッチも動かない地車の上で「なんで大きしてもうたんやろ、みっともない」と後悔する。無論、前向きな世話役は「来年は特訓やな」とSチックな笑みを浮かべている。

重さ4トン+屋根方、鳴り物、世話役や年寄り連中も乗せての宮入り

まだ地車の巨大化が進んでいない昔から、少なくとも私が知る限り、昭和後期から平成、令和の現在に至るまで、空區地車は住吉一大きかったにも拘らず、宮入りの美しさには定評があり、それは間違いなく今日まで続いている。
空區地車の宮入りを見た観客は口をアングリあけて「空區の宮入りは神がかってる」「神ってる」と狂喜乱舞する。
神がかっているのではなく、神と向き合って物我一体(=もつがいったい。仏教語で他の人と自分が一つになり、他者も自分もない境地のこと)となっているのだから、美しいに決まっている。
いわく、神がかっている。

空區若中の中にも地元育ちでなく、祭りの時だけ集まる在のわからぬ若中がけっこうおり、そこに初心者も加わる。そんなチームで重さ4トン、ハンドルもブレーキもない地車を操つり「神ってるー」と、観客を唸らせる。
本来、地車を操るには個の対応能力、先を見る予知能力が必要となる。空區の場合、これら烏合の衆に交じって命がけで地車に向き合う人間=アホがいる。
言い換えれば強気、いや狂気の人がいる。普段は謙虚だが、鳴り物の音と共に変異する。対応能力と予知能力を持つ個が地車の要所に付き、烏合の衆を確かな方向に導く。
そういう強気の人に、とかく民衆はついて行きたくなる。
強気の根拠は背中が示している。だからやっぱり、ついていってしまう。
こうして強気の一大集団が形成される。
いわく、神がかっている。

法被を着ればみんな若中

空區には若中の下部組織に当たる「子供会」がある。
空區の法被の”ベベ着”をきたベビーカー組、綱を曳く小学生、高学年になると鳴り物を叩く天才小学生、中高生になると憧れの屋根に登って踊る。20〜50歳は必死のパッチで曳き、60歳を過ぎても屋根にのぼる猛者もいれば、地車の前”棒鼻”の中に居座り”一人で曳いている感”満載の前期高齢者もいる。浴衣を着て指定席だと言わんばかりに地車に座る後期高齢者の年寄り(だんじり用語で年齢は関係なく浴衣を着ると年寄りと呼ばれる)などなど、ここに集う若中は、老いも若きも性別も関係なく、みな青春真っ只中。謳歌している。
いわく、神がかっている。