黒川博行『文福茶釜』を読む
黒川博行さんの連作短篇集『文福茶釜』を面白く読みました。黒川さんは、なんでも芸術大出で、高校で美術の先生していた方のようです。偶然、『歪んだ名画』というアンソロジーを読む機会があり、その中に収められていた黒川さんの『老松ぼっくり』が面白かったので、同趣向の『文福茶釜』に食指が動いた次第です。
『老松ぼっくり』は、要するに骨董業界の内幕を描いた作品でしたが、『文福茶釜』に収められている5篇は、日本画(『山居静観(さんきょせいかん)』)、茶道具(『宗林寂秋(そうりんじゃくしゅう)』)、彫刻(『永遠縹渺(えいえんひょうびょう)』)、骨董(『文福茶釜(ぶんぶくちゃがま)』)、陶磁器(『色絵祥瑞(いろえしょんずい)』)に纏わるそれぞれの物語が展開します。タイトルは閑雅で趣きがありますが、内容は形而上的とは到底言い難く、その意味で作者が〈文福茶釜〉を短篇集の総題にしたことに、なかなかのウイットとセンスを感じます。
それよりも彷蜃斎にとって、興味深かったのは、日本画ことに水墨画において「相剥(あいはぎ)」という技法があって、「紙に描かれた墨絵(すみえ)を薄く剥いで二枚にする」ことを指していて、いうまでもなく、上側は真本(本物)だが、下側の相剥本も真本の一割から二割の価値をもっているという事実だったり、ブロンズ彫刻は最初から複製を前提として作られていて、しかも「星とり法」という技法で大きさを自由に変更してかまわないということでした。
もちろん、前者においては、価値ある複製(もう一枚の本物?)は一枚だけですし、それも墨絵に限ってのことですし、後者においては、複製を作る度に石膏の原型に傷ができるので、本物としてのコピー(?)はせいぜい五体までらしいのです。
これらのことは、芸術におけるいわゆる本物だけがもつという「アウラ」とは、一体なにかということを考える上で、極めて示唆的だと思います。「アウラ」はその芸術作品が唯一無二の存在感の謂ですが、要するに、最初に言い出したベンジャミンがドイツ人だったので、ドイツ語が特別な意味をもって流通したわけで、英語なら「オーラ」になるわけです。
『文福茶釜』所収の5篇すべてにおいて、真贋の決め手が「ぱっと一目見たときの感覚」とか「目利きは第一感でする」としか表現されません。それは、「アウラ」が、いかに恣意的で曖昧なものだということの裏返しだろうと思います。
それゆえ、「鑑定書」だとか「箱書」を必要とするのでしょうが、それとて、その作品の本質的な芸術的価値とは少し次元の異なる、あえて言葉を選ばずいえば、売り買いのための保証のためなのかなと思います。
とにかく、いろいろな意味で興味深い『文福茶釜』でした。