永遠も半ばを過ぎて
・『ウソツキ!ゴクオーくん』の感想記録です。記事タイトルは中島らもの小説から。
・6月中旬に読み、今週読み返したのですが、本当にとんでもなくおもしろく、今後の自分のランドマークにもなる傑作だったので、自分のためにも感想を記録しておきたい。1本のまとまった感想文として書く体力がないので、断片的、散文的になるが、それでも残しておきたい。
・ネタバレは大量に含まれます。
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・何より、「嘘」を題材として取り扱う上での、レパートリーの豊富さが凄まじい。その多彩さは、「嘘のつき方」であり「嘘の暴き方」であり「嘘との向き合い方」であり、とにかく、「嘘」にまつわる全てを徹底的に描き尽くしている。
・そして、これだけの幅広さを持ちながら、「嘘によって嘘を暴く」という軸だけは絶対に揺るがないのが凄すぎる。「嘘を暴く」というたった1つのアプローチしか使っていないのに、物語もテーマもキャラクターも、そこから千変万化に花開いてゆく。
・キャラクターごとに異なる「嘘」。それが生まれる理由と過程、そしてむかえる結末を全て異なるものとして描くことで、「嘘」を描くことがそのまま各キャラクターを描くことになっている。「嘘」を通して個性を花開かせるキャラクターたちが、学校の中にどんどん蓄積されてゆき、話を重ねるごとに群像劇としてもめちゃくちゃ分厚い内容になってゆく。
・積み上げられてゆく「嘘」、そしてそれに向き合った、あるいは逃避した子供たち、大人たちの姿が、徹底して描き抜かれる。「嘘」を暴かれて終わり、ではなく、それが何をもたらし何が変わったのかが、残酷なまでにフラットに。
・だからこそ、呼気の湿りやら血の温度すら感じるほどに、彼らと彼女らは生きてそこに存在しており、学校も、地獄も、間違いなくそこにあるのだと確信させられる。REALがある。児童漫画として戯画化された描写を貫通するように、あまりにも痛切に生々しく、本当の「嘘」がそこに存在している。
・フィクションという、「嘘」のつき方が、うますぎる。
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・描写のフラットさは、主題である「嘘」の描き方にも強く表れている。
・「嘘」を、善いものとして悪いものとして、愛すべきものとして忌避すべきものとして、糧となるもとして害となるものとして、あらゆる視点と切り口でフェアに描写し尽くした上で、本作は「それは絶対になくならない」という点だけを断言し続ける。
・「嘘をつくのはよい」ではなく、「嘘をついてはいけない」でもなく、「ヒトがヒトと関わり合う以上、絶対にそこには嘘が生じる」。そして、「そういう世界で、お前は今後もやっていかねばならない」と断言し続ける。
・登場人物たちが「嘘」をついたことで得たもの、失ったものが、常に引き継がれ、熟成され、描き続けられることで、そのたった1つの正しさだけは絶対に「嘘」ではないことが証明され続ける。しかもそれは、安易な繰り返しによってではなく、休む暇なく繰り返される耐久実験によって。
・「嘘」というもののすそ野がどこまで広がっているのか、その限界を、可能性を、本作は常に妥協なく追いかけ続ける。
・「『究極の嘘』は何か?」「嘘の対立項となりうる存在は何か?」各シリーズごとにぶち上げられた命題は、どこまでもロジカルに、前提を踏まえて考察されてゆく。そしてそれは机上の言葉遊びで終わらず、それにぶつかり、考えるキャラクターたちの成長にも反映されてゆく。「嘘」を題材している作品なのに、その「嘘」への向き合い方にはあまりにも嘘がない。
・「嘘」を愛し、暴きたてる主人公なのに、ライバルやヒロインが「正直者」や「嘘嫌い」というキャラづけではなく、別の形での対照的な「嘘つき」になっていることの、凄さ。本作にはガクくんという「正直者」も登場するのだけれど、彼はライバルでもなければヒロインでもない、友達の1人だ。「嘘をつかない」「嘘を嫌う」こともまた、「嘘」という広大な何かに含まれる1つの要素でしかない。
・「嘘」はある。絶対にある。ヒトとヒトが関わり合う中で、それは絶対にある。どこまでも大きく、広がり、横たわっている。では、その条件を踏まえて「嘘がない」が成立するとしたら、それはどんなものなのか……。
・魔男くんの設定が、「嘘を知らない」であること。そしてその不知を作った環境がなんであったのかということ。その結末。今思い返してもとんでもない。
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・個々のエピソードとしては、12巻の学級裁判回がやっぱり好きだ。ここまで積み上げ続けた5年2組の物語の総決算であるし、主人公・ゴクオーくんとヒロイン・天子ちゃんの関係性の1つの決着点でもある。何より推理小説の愛好家としてこの変態ミステリぶりは偏愛せざるをえない。
・「魔法によってねつ造された真相を否定するため、魔法を説明に用いずに、正しい真相に行き着く『嘘』の推理を組み立てる」
・麻耶雄嵩かな?
・そもそも、サタン編自体が変態ミステリ度の高い長編シリーズで、他にも「推理をトリックではなく、暴力によって妨害された場合、探偵は対応可能か?」みたいな話もあったりする。
・講談社ノベルスかな?
・情報量の多い現実世界において、情報量が少ないからこそ成立しうる本格探偵小説の手続きを用いて真実にアプローチすることの限界点。それを、絶望や諦念ではなく、「だからこそ」真実に到達しうるのだというケースの提示。真実に到達するまでの隙間を埋めるのは、「嘘」であり、では、本作において「嘘」とはなんだったのか。それは、どこから生まれたのか。ヒトのヒトの関わり合いではなかったか。だったら、机上の理屈を超越させうるものは、理を揺るがせて真実に到達させうるものは、1つしかない。さよなら神様。涙流れるままに。個人の中ならば、納得が理に優先しても構わない。
・推理ものとしてはベーシックな内容である、ナナシノ編がこの後にくるのもおもしろい。お話の出発点が「真実」ではなく、「嘘」なので、語られる順番も通常の推理ものとは逆になってしまうんですよね。
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・そして何より、やっぱり一番好きなのは、最終回のラストページだ。あらゆるフィクションの締め方の中でもトップクラスに好きかもしれない。本当に、本当に、よすぎる。本気で涙が出た。
・ヒロイン・小野天子というキャラクターの凄さ。一見テンプレートな優等生キャラでありながら、その善性はとても複雑に絡み合っている。「強さ」という形で表現しうる魅力を持つキャラでありながら、決して一辺倒ではなく彼女は普通に弱いし、等身大の小学生で……何より、嘘をつくのが下手だということ。この漫画を読んで、彼女を好きにならないのは無理だ。
・そんな「嘘が下手なヒロイン」と、「嘘が得意な主人公」のコンビの別れを描く以上、そりゃまあ最後はヒロインが主人公に嘘をついて(騙して)終わりということは誰でもわかる。そして実際、ストレートな盛り上がりによって、本作は実際それをやってのけている。それは読んでいて魂が着火され、その後の別離の余韻をたっぷりとひきたてるものであり……。
・そして、最後の最後に完全に意表を突く形でぶちかまされるちゃぶ台返し。児童漫画らしい、なんとも小憎たらしい悪ガキめいた嘘のつきっぷり。
・まっすぐなエンターテイメントをぶち抜いてゆく、小野天子という規格外のキャラクター性。そして、彼女がそれをぶち抜けるということが、そもそもこのお話の出発点であったという再確認。あまりにひねくれていて、悪ふざけで、腰砕けで、抱きしめたくなるような、子供たちと閻魔さまの嘘の物語。
・「ヒトがヒトと関わり合う以上、絶対にそこには嘘が生じる」
・「自己(ヒト)との関わり合い」においてはゴクオーくんの成長物語を、「他者(ヒト)との関わり合い」においてはゴクオーくんと天子ちゃんの愛の物語(少なくとも、まだ恋愛ではない)を、本作は最後まで描きぬいている。だからこそ、「嘘を愛し、嘘を暴くお話」として、余りにも嘘がない。
・ゴクオーくんと天子ちゃんの物語に感動させられる読書体験がそのまま、「嘘っていいもんだぜ」「でも、嘘って怖いものだぜ」「それでも嘘をついて、やってゆく」という答えの証明になっている。
・「嘘」の可能性はどこまでも広がってゆく。その点において、本作は、おそらく、人間賛歌ですらないと私は思う。「嘘」は、人間すらも越えて、大きく広がり、横たわっている。
・「嘘」が生じる条件、「ヒトとヒトとの関わり合い」。本作は、人間ではないゴクオーくんと、人間である天子ちゃんの関わり合いの物語であったし、天使の、悪魔の、奇跡の、死者の、仏の関わり合いの物語でもあった。ただ1つ、世界のルールそのものであり、システムである神だけが、「嘘」の外側に立っており、1度も主役を務めず、ヒトではなかった。
・「嘘」の可能性はどこまでも広がってゆく。人間の領域を超え、時間を越え、生死の境を越え、永遠も半ばを過ぎたとしても、知性がそこにあり、思考と意思が続く以上、必ずそこに「嘘」はある。そうして、これからも、私も、皆も、やってゆく。
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・キャラクターも魅力的で、ドラマも魅力的で、それらと題材の結びつきも魅力的で、全てに一貫性と新規性があり、かつ予想を超えてきて、最終回の最終ページが一番おもしろい。
・最高の作品でした。みんな読もう。