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【小説】言葉の贅肉を吹き払う

 最近感想ばかり書いている。noteの記事を埋めるのは、読書体験の言語化ばかり。読んだ本の感想を書くことは好きで、子供の頃からずっと続けている娯楽だ。テキストと自分の脳みその間に発生した複雑な情動を、切り捨て、切り詰めることで輪郭を明確にする行為には、ある種の強烈な快楽が伴う。単に、道具としても有用だ。言語化したものは、容易に扱える。応用し、装填された弾丸のように別の読書の時に懐から取り出して使用ができる。大昔に読んだ本のことを思い出すトリガーとしても役に立つ。しかし、その楽しい感想行為も、どうにも小手先じみてきたとうか、言葉だけを弄んでいるというか、やや頭でっかちになってきたように思う。

 ニンジャスレイヤーを読んでは感想を書き、推理小説を読んでは感想を書く。楽しい。ただし、どこかで換気をする必要があるだろう。排水溝に毛髪がふきだまるように、体験を言語化し続ける行為は、目に言葉をこびりつかせることになる。言葉にすることにストレスが伴わなくなるのは、一つのサインかもしれない。体験があり、それに対する情動を言葉にするのではなく、言葉にすることを前提で体験するという転倒が起きている。感想を書くのは言葉にできない体験を、圧縮するのが楽しいからだ。私はそうだ。最初から言葉としてものを読んでしまったならば、そこにはもうその楽しさがない。想起のトリガーとして使用しようと思っても、感想文に書かれているテキスト情報しかそこにはなく、展開されるべきひもづけ情報は残らない。

 そういう時に、読むべき作家を自分は何人かストックしている。知らず知らずにこびりついた言葉の贅肉を、心地よく吹き払ってくれるような作品を書く小説家がいる。今回は稲見一良を選んだ。短編集『セント・メリーのリボン』

 ドラマチックな執筆背景を持つ作家だが、それは余計な情報だろう。実のところあまり冊数を読んでるわけでもなく、既読は『ダック・コール』と『猟犬探偵』の二冊のみ。しかし、この二冊だけでも十分に間違いないと確信できた。『ダック・コール』は自分にとってのオールタイムベストの一つでもある。『セント・メリーのリボン』を読んだのは、『猟犬探偵』の主人公が登場する短編が収録されていると聞いたからだ。あくまで目安であって、重要なところではない。恐らく、どの作品を手に取っても問題はない。

 収録作は五編ある。ここでは個々の作品について細かく感想を述べることはしない。五編全て、宝石のような物語が世界一かっこいい言葉で書いてある。文章がしなやかで美しい。足の速い草食動物が目いっぱい背を伸ばしたときのような、肉の密度と確かな骨格を伴った、強靭さに由来する美しさだと思う。多くの技巧が凝らされているだろうに、手触りは恐ろしくなめらかで、細工の継ぎ目がどこにあるのか、読んでいて全くわからない。ページを適当にめくり、ランダムに文章を読んだだけでも、ほれぼれとしてしまう。

 一際暑かったあの日の、万物が息を潜めて閉塞していた午後、アリスのように落ちた穴の中の不思議な人たちはどこまでも謎めいていて、俺の心を掴んで放さなかった。
(『セント・メリーのリボン』、「花見川の要塞」、光文社文庫、p.53)
 老人が木の枝で焚火の灰をまさぐった。握り拳ほどの大きさの丸いものが二つ、ゴロリと転がり出た。ジャガイモだ。老人は節くれだった皺だらけの手で薯をとり、掌で転がしながら灰を払った。皮を茶色に焦がした薯を、ひょいとおれの膝に投げてくれた。
(『セント・メリーのリボン』、「焚火」、光文社文庫、p.18)

 強靭なのは文章だけではなく、物語もだ。作中で語られる価値観や哲学は、2020年の今にしてみれば古めかしいものも多いが、そこに何の問題も感じさせない。寄り道もわき見もない、まっすぐに引かれた物語が、臆さず正面から語られている。なにしろ、本を開いてまずに目に飛び込む掌編「焚火」からして、「ヤクザに追われて逃げる男が、山中で老人と焚火を囲み飯を食う」というストーリーなのだ。ちなみに表題作は「探偵が、盲目の少女のために盗まれた盲導犬の行方を追う」である。強すぎる。勝てるわけがない。私自身は一次創作をやっていないので偉そうに言えないが、パルプスリンガーにとって、本作は一つの理想の体現になるのかもしれない。教科書にすることは難しいだろう。少なくとも私には無理だ。ここまで仕上がったものを、分析し、解体することはできない。もったいないと思ってしまう。強いていうならば、刃を磨く流水として、使うことができるかもしれない。私が言葉の贅肉を削ぐのに使ったように、それだけの力がここにはある。

 

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