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最近読んだアレやコレ(2024.09.08)

 家の近くに水場があるせいか、とにかくカエルをよく見ます。大きいものではなく、親指の先を切り落としたくらいのニホンアマガエルで、雨が降るとライトグリーンの点々が自家用車のまわりのそこここで跳ねまわります。通勤時、踏みつぶしそうでおそろしい。汁の詰まった袋を潰してしまうことに、生理的な嫌悪感がある。また、いつの間にか、自室に入り込んでいたこともあり、私の爪切りをじっと睨みつけていました。家中に現れる虫としては、ハエトリグモほどかわいさは感じないものの、そこそこ愛らしく、愉快です。よく羽虫も入り込んでくるので、片付けて欲しい。

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霧越邸殺人事件(上巻)/綾辻行人

 山中彷徨う劇団員たちが見た、湖に翼を広げる巨鳥の影。それは霧越邸と呼ばれる、異様な洋館の輪郭だった。邸内で彼らを待ち受けていたのは、冷淡な使用人たちと隠された秘密、オルゴールの調べと奇妙な暗合、仲間の1人の死……。そして、その死体には、奇妙な装飾が施されていた。

 再々読。私にとっての綾辻ミステリのベストであり、2度読み返しても評価は変わりませんでした。「吹雪の山荘」での見立て殺人ものであり、手続き上で変態的な趣向を凝らしているわけでなく、言わばコテコテの本格推理小説なのですが……この妖しいほどの異形ぶり……作中の語彙を借りるならば……「畸形」の気配は一体何事なのでしょうか。『暗黒館の殺人』の半分以下の枚数(1250枚/2600枚)でありながら、本作にはそれに匹敵する分量の偏愛が詰め込まれており、紙面全面に張り裂けそうなほどなテンションがかかっています。執拗に繰り返される暗合は、特殊設定もののパズルのピースでも、遊び心からくるイースターエッグでもなく、そのアンバランスなまでの偏愛量がもたらす必然……言い換えるならば、霧越邸という畸形建築がとるべき正しいかたちはこれしかないという、どこか神がかりめいた確信を伴って記されています。そして、それが可能なほどに、この霧越邸には説得力がある。実在性がある。再び作中の語彙を借りるなら……確かな”風景”がここに在る。私にとってのそれは、「羨ましい」ものであり、「鐘」であるので、”風景”という言葉が持つニュアンスからはややずれるのですが、それでも、この小説に見える景の美しきは、自分が本作をベストに選ぶ最も強い理由です。また、その主題は、霧越邸が中村青司の館に含まれない根拠になっているとも思います。それについては下巻の感想で。


霧越邸殺人事件(下巻)/綾辻行人

 雪に閉ざされた霧越邸。「雨」になぞらえた殺人は未だ終わらず、劇団員たちの生き残りもあと僅か。事件を予言するかのような奇妙な暗合は何を意味するのか。連続する死の”風景”は何者かの作為によるものか。偶然と必然の交錯は、ついに探偵役を呼び起こし、事件の天幕を畳む時が来る。

 再々読。「僕は”風景”を探している」。第一幕での台詞は、このヒトごろしの物語の指針であると同時に、本作を〈館シリーズ〉と隔てる宣言であったようにも思います。「重要なのは筋書きではない、枠組みなのだ。」とは、『十角館の殺人』の冒頭の言。ひとり分の人間の形を、他者を招き入れることが可能な規模まで拡大したものが館である……言うなれば、それはどこまでも、作為によるものであり、営為の内に留まるものであり、ヒトが創り上げるモノでした。果てなく広がる世界の一角を、意思に則り囲うことでできあがる”枠組み”でした。しかし、"風景”とは、人為を介する余地なく、その囲いの外側に広く広くただ在るものです。創るものではなく探すものであり、狂うものではなく狂わされるものであり、ただ写し取り、描き、模倣することだけが可能なものです。救済や妄執からそれを創り出そうとあがくヒトの小賢しい努力を押し潰すように、ただの現実として当たり前に山の中に在る異界を、あるいは川の向こう側に広がる彼岸を、霧越邸は強く実感させてくれるのです。「本物」がそこに在るという首肯を、返してくれるのです。語り部が結末で目にした人影が、彼女ではなく、彼であったことに、私は深く共感します。館に囚われたヒトにとって、自らが作らずともそれがそこに在るということは、奇跡そのものなのですから。


カッコーの歌/フランシス・ハーディング、児玉敦子

 「わたし」は、池に落ちて失った記憶を既に取り戻していた。トリスという名。11歳という年齢。父、母、自分を嫌う妹のこと……。しかし、何かがおかしかった。膨れ上がってゆく違和感はやがて「わたし」にその正体を気づかせる。1920年代の英国、何者でもない少女の7日間の冒険が走り出す。

 文章を読み、物語を進める。主人公の行動と心情を追いかける。ストーリー小説としてごく当たり前のそのことが、ぶっとく・ぶあつく・おもしろく、夢中になってしまいます。ハーディング作品の地力の高さには、安心してからだをゆだねてしまう……。未成熟な少女が、自らの内から出た言葉によって自他を分かち、独りで立ち上がること。そうして力を得た言葉で、他者に語りかけ、語り合うこと。やがて、自身の庇護者であり尊敬する大人たちも、自分と同じ「子供」であると気づくこと。『嘘の木』と根を同じくしながらも、よりファンタジックに、抽象的に、つまりは本質をむきだししてそれらを追いかける本作は、辿り着くゴールもより苛烈です。高く高く歌い上げる声と、囁きだらしなく広がる嘘の違いというべきか……いや、小賢しい比喩も分析も不要でしょう。本作は、繰り返しますが、とにかく読む楽しみに溢れています。物語上で起こるあらゆる動きが、確かな重みを伴って読者の手に渡され、その全てが真に迫って胸をうちます。秘密の正体にしんしんとお腹を冷やし、駆けまわる足が踏む地面の硬さに痺れ、サイドカーで浴びる風の苛烈さに目を細めましょう。小説というこの作り物の中には、まぎれもなくREALな体験があり、それらはどれも未踏の冒険に彩られているのです。素晴らしい1冊でした。『影を呑んだ少女』も読まなければ。


いぬの日/倉狩聡

 ヒメは家族を嫌っていた。食事は与えられず、抜け毛を責められ、玄関から自由に出られない。なぜ、わたしだけ? 奇妙な隕石が降った夜、ヒメはその不公平の原因を知る。「犬」の自分は、「人間」である彼らとは違うのだと……。その理解は、ペットたちによる復讐の始まりを意味していた。

 飼っていた愛玩動物が知性と言語を獲得し、自分たちが置かれた立場を理解してしまう。解決策も妥協案も見つけようがなく、「もしそうなったら、困る」としか返しようのない行き止まりの恐怖。想像と創作の先に架空の理不尽が立ち塞がる。そんなホラーの醍醐味をたっぷり味わうことができました。また、どう描いても陰惨にしかなり得ない題材で、事実、全く救済われないお話になっているにも関わらず、読み味はキュートでポップです。前作『かにみそ』から引き継がれたその特異な作家性は、決して読み手を癒すものでなく……むしろその逆、逃げ場のなさとして立ち塞がります。なぜなら、この物語にカワイイを感じてしまうことこそが、主人公・ヒメの復讐の動機そのものだから。「泣ける」ホラーとして絶望的なまでに高低差のついた共感の暴力は、ぞっとするほど容赦なくカワイソウ・カワイイの形をとって奮われ、残酷にも受け入れられる。そして、だからこそ、最後に描かれるまっすぐな悪意……同じ目線から放たれる怨みのおそろしさには、心を動かされます。おそろしくないことが救済われず、おそろしいから救済われるという、奇妙な転倒がたまりません。倉狩流アニマルホラー、もっと読みたい。いつの日か、3作目を、是非、何卒、ずっと待っていますので……。


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