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最近読んだアレやコレ(2024.10.06)

 『獄門島』という小説……さらに言うなら「獄門島の鐘」というモチーフは、自分がフィクション作品に触れる上での、ひとつの基盤となっています。幼少期・学生時代と読み継いでいた作品群から受け渡され、しかし未整理のまま血肉の内にうずまかせていた「何か」の正体について、「ああ、そういうことだったのか」と得心がいったのが、「獄門島の鐘」を目にした瞬間でした。……が、何故か、読書記録には記録が残っておらず、物理書籍も電子書籍も所有しておらず、購入履歴にも『獄門島』はありません。一時期横溝作品のドラマ・映画を友人とたくさん観たので、その時に触れ、読んだものと勘違いしていたのでしょうか? しかし、友人曰く、ドラマ版は原作と全く内容が違うらしい……。図書館で借りて、記録をつけ忘れたという説が妥当かも。以下の感想冒頭の「おそらく再読」とは、そういう意味です。

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獄門島/横溝正史

 とある友人から遺言を託された金田一耕助は、彼の故郷を訪れていた。名を獄門島。未だ封建的な習わしに支配されているその島に、金田一が持ち込んだのは本家長男の訃報。やがて来るべき時が来た。本家の娘がひとり殺されたのだ。それは友が言い残した遺言通りの、悪夢のごとき凶事であった。

 おそらく再読。ランダムに散らばる事象たちを理で結び、理解・納得な形で現実に意味を通してゆく。『獄門島』は、そういった「謎解き」が持つ本来の効力を、反転させた傑作です。首を落とすように意味を切り離し、事象の連なりをバラバラの偶然へと解体してゆく。文脈は誤解へ、奇跡は誤読へと殺されて、習わしという名の連続した世界アナログは……「封建的な、あまりに封建的な」……世界は、いずれにも地続かない不連続の島デジタルへと還される。しかし、その徹底的な殺戮・解体・整地の果て、島の上にただひとつ、「獄門島の鐘」だけが残されているのです。元よりただの偶然であるがゆえに、誤まりの入る余地もなく、ただそうであっただけの「獄門島の鐘」がそこにぽつんと在るのです。全てがランダムな荒野の中に、ただの偶然が、ただの偶然のまま、延々と鐘の音を響かせているのです。私は、その光景に耐えられません。作中のように条件数が3つならば、まだ大丈夫でしょう。しかし、その数が4つ、5つ、6つと増え続けた時、いつか自分も踏み越える境界があるだろうと、私は絶望しています。探偵の推理を理解・納得し、合理と秩序の内に生きながらも、しかし、鐘の音が響き続け、重なり続けたら、いつか必ず狂ってしまうだろう、いや狂ってしまいたいと、私は強く憧れ、羨んでいます。鐘の音だけが鳴り響き続ける島を、探偵はもう去ってしまった。私にとって『獄門島』という作品は、「獄門島の鐘」を再確認するためのものであり、それはおそらく推理小説というもの、あるいは小説というものを読む、大きな動機となっています。


そして誰もいなくなった/アガサ・クリスティー、青木久恵

 オーエンを名乗る謎の人物から、孤島に招かれた8名の男女。しかし、島には誰も居らず、雇われた執事夫婦も事情を知りはしなかった。混乱する招待客たちを煽るように、レコードが録音された声を流し始める。それは、隠された罪を告発するものであり、連続殺人の開廷を告げるものだった。

 推理小説を好んでいるのに、恥ずかしながら初読でした。そして、これまで運よくネタバレを踏まなかったため、「オチを知らずに『そして誰もいなくなった』を読む」という貴重な体験ができ、おかげで大きな衝撃を2つ受けました。とはいえ、それはオチに該当する部分……犯人やトリックのような、推理小説の核となる部分ではありません。ひとつは、サスペンス・スリラーとしての並外れたクリアさです。状況がドライブし続け、ハラハラとワクワクがひと時も緩まない。それを阻害するあらゆる要素が取り除かれ、興奮と緊張が曇りひとつない文章を透過して、脳の奥までまっすぐ届く。そしてもうひとつが、完全な型式を目の当たりにしてしまったということです。建てられたものの強度の高さは、歪みや継ぎ目のない美しい仕上がりが雄弁に語っており、また、その本能的な確信が正しいことを、それが数十年以上保ち続けた事実が証明してくれています。完全な型式の前では、そこに代入される具体な答えなど、ただのひとつの使用例に過ぎません。そういう意味では、私は本作のオチに興味を持ちません。「そこで行きどまり、おしまいだ……」とある通り、本作は行きどまりで充分に足りていると、思い知らされてしまうからです。曇りひとつ、傷ひとつ、歪みもなく、完全に完成し切ったガラスのナイフ。それを手にして血で汚すのは、ナイフを創ったものではなく、ナイフを受け取った者の仕事だと思うからです。


ぼくは化け物きみは怪物/白井智之

 人類殺戮を繰り返すエイリアンの船内で。北アフリカの内戦と日本のとある小学校で。訳有の遊女が吹き溜まる郭町で。異星人の化石が発掘される神の島で。そして、フリークス達が集う見世物小屋で――炸裂する奇想がヒトと怪物の肉片を掻き混ぜ、推理の下に敷き詰める。ミステリ短編全5編。

 何を食ったらこんなことを思いつけるんだとのけぞってしまうほどの奇想と、どれだけ推理小説に狂えばここまでのものが書けるんだと呆れてしまうほどの精度。両者の均衡をとりつつも、おおよそ常に後者側に崩れてゆくいかがわしさが白井短編の魅力です。しかし、第3短編集となる本作は、初めて前者の方へ天秤を傾けたアルバムだったと思いました。もちろんそれは精度の低下を意味しておらず……むしろ、作品を重ねる毎に上がってゆくのだからおそろしいばっかりで……にもかかわらず、それを上回るほどに、本作のアイデアはおぞましく逸脱しています。何を食ったこんなことを思いつくのか、ではありません。こんなことを思いつく化け物が食ってる物は知りたくもない。そう言えるほどに、5編はいずれも甲乙つけがたく、別方向にトんでいます。たとえば、異形さであれば「最初の事件」が、突飛さであれば「大きな手の悪魔」が、執拗さであれば標題作が。そして、飲み込むのに苦労したそれらの奇想が、前述した狂気の精度をもってしてみるみるうちに推理小説らしい形をとってゆく不気味さたるや。わけのわからないぬるぬるした機械の塊が、汁をとばしながら身を捩り、自ら面を揃えてばらばらとほぐれてゆくような……仕組みも規則も読み解けないパズルらしき何かの早解きを、最前列で見せつけられたような心地です。本当に凄い。


バイバイ、サンタクロース ~麻坂家の双子探偵~/真門浩平

 刑事を父に持つ麻坂兄弟は、小学生でありながら探偵として優れた才能を持っていた。ただし、スタイルが違う。傍若無人、冷徹酷薄。人の心を無視した事実と論理の組み上げで真実を暴露する兄・圭司。人の心を読み解くことを得意とする弟・有人は、それを苦々しく思っていて……。連作全6編。

 全6話にかけられた2つのグラデーション。少年探偵らしい小さな日常ものに、次第に陰惨な事件が顔を出し、ついには身の周りで殺人事件が起きてしまうというもの。端正に組み立てられた王道本格推理から、徐々にねじれた趣向が顔を出し始め、推理小説という型式自体の裏をかいてゆくというもの。AからBへと暮れなずむ作品カラーは、淡いの内にその変化を際立たせ、コンセプトを強く前に打ち出します。推理小説好きとしてはやはり麻耶雄嵩を想起させられる作品であり……中でも、事実上の標題作である「サンタクロースのいる世界」での、「サンタクロースの実在を前提に、子供たちが推理を行う」という取り組みは顕著です……しかし、そのコンセプトを内へ内へと突き詰めるのではなく、有機的に物語に接続することで、外へ外へと思考を広げてゆく手つきは、麻耶作品と明確に異なっています。ミステリの駒として物語があるのではなく、物語の一助としてミステリが用いられているというべきか。「探偵」の耐久性は、条件が整備された無機質な思考実験下ではなく、ある種のブレとゆらぎを含みながら、割り切れることのない生きた世界の内で、危なっかしく試されてゆく。安全性なんて気にも留めず、無防備に。まったく、探偵なんて幼稚な真似は子供以外やるはずもなく、子供が探偵なんて危ないことをやるべきではない。現代本格の名作です。


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