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細川興元とその妹・伊也

細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟。
そして今回紹介するのは、忠興・興元の妹・伊也についての逸話の紹介です。


『一色軍記』には細川家が丹後の領主・一色氏を謀殺したのちの伊也(忠興・興元妹、一色義俊室)の話が記載されており、それに少し興元も出てきます。

今回は『峰山郷土史 上』から引用。

弓ノ木が天正十年五月二十八日に落城して、その年の十月一日の出来事である。落城後府中の中村庄にかくれて、亡き夫義俊の冥福を祈っていた菊の方(伊也)は、この上、生きる望みのないので、峯山城の兄興元に会って、後々のことを頼んでおいて自殺しようと、王落峠の難所を越えて、大野の里までやってきた。

大野の里はすっかり暮れて、野辺の秋草には、しっとりと霧がおりていた。フト歩を止めた彼女は、袖の露を払いながら涙ぐんだ。
「世のうさは 大野の里の しのぶ草 しのぶにぬるる 袖ぞかなしき」歌に心をなぐさめた彼女は、一夜を人家の軒かげで明かし、翌朝、峯山にたどりつき、大手の木戸をたたいて、兄興元に会いに来たと告げた。あいにく、その日、興元は留守であった。

 留守居役の志水伯耆守は、驚いて老臣沢田出羽守に相談し、たとえ幽斎の娘とはいえ、いったん、敵将義俊に嫁した菊の方を無断で城内に入れたため、後日、忠興のご機嫌を損じては大変だと、不在を幸い、木戸の外から追い返させてしまった。

 菊の方はしかたなく泣く泣く引き返し、楠田掃部頭の落城の跡である長尾村(長岡)まで来て自殺した。
 間もなく帰城した興元は、訪れた妹が追い返されたことを聞くと、早速、後を追ったがすでに遅かった。彼は在所の者に命じて、妹の遺骸をだび(火葬)に付し、塚を築き、妹の名にちなんで「菊の岡」と名付けた。

 その後、菊の方の年忌の際、忠興、興元兄弟は、在所の人たちを呼び出し、謝礼のしるしに米を与えたが、在所の者が「当て火の者が参りました。」といって出頭したので、この在所を「当火」と呼ぶようになった。また、火葬の地を「葬の岡」といい、菊の方の自殺したところを「姫御前村」と呼んでいる。

『峰山郷土史 上』

ざっくり考察


実際のところ、伊也は自殺していません。
一色氏謀殺ののちは、代々京都の吉田神社の宮司を務める吉田氏の吉田兼治と再婚しています。
一色軍記は江戸時代に作られた作品なのでちょっとフィクションも入ってるのかなと思います。

ただここに出てきた当火(あてひ/当日)姫御前という地名は残っているみたいです。

あと京丹後市大宮町には菊丘神社という神社があります。
この神社は「戦国時代に政略の犠牲となった細川藤孝の息女菊(伊也)を祀っている」とのこと。


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