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徳川秀忠の談判衆って?
徳川秀忠の談判衆だった細川興元について。
細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟です。
興元は関ヶ原合戦の後、細川家を出奔。
その後徳川家康の仲介で忠興と和解します。そののち、興元は秀忠の談判衆として取り立てられています。
談判衆ってなあに?
談伴衆とは将軍が古今の文学や武道の知識を広める事により、政務に利益をもたらせるために定められたメンバーのこと。
これに任じられる者は、知識経験豊富だったり武功がある者、学者に限られていました。
娯楽相手の御伽衆とはちょっとニュアンスが違います。
特に秀忠の談判衆は将軍の前に出頭できる特定の大名、という政治的意味合いが強いようです。
『本光国師日記』では元和2年(1616)12月21日に定められた秀忠の談伴衆について記しており、そこで興元の名前を確認することができます。
『本光国師日記』元和三年正月五日条
立花左近殿(宗茂)極日廿一日之返書来、御放衆相定
丹五郎左(丹羽長重)・佐備前(佐久間安政)・細玄(細川興元)・立左・猪内匠(猪子一時)・三因州(三好一任)・本田若州(本多一継)・野伊与(野瀬頼次)以上八人
四人宛一日替之番手之由申来、唯心(日野輝資)・禅高(山名豊国)・一斎(水無瀬親具)・朽河(朽木元綱)なとは、番手と候は、気つまりに候はん間節々に出仕仕候へ之由、仰出之由申来
というかんじで定日出仕の8人のとこに選ばれています。
元和2年の一覧を見てみると、その大名の功績によって出仕の日数が違うようです。
定日出仕→武功ある信長・秀吉時代の取り立て大名
不定日出仕→知識経験豊富な人物
毎日出仕の者は三・甲・遠州出身の旗本
『武功雑記』三巻.十七では談伴衆の役割や担当地域が記されています。
台徳院様御咄の衆
立花隆斎…九州の事をよく存じたり
九龜大隅守…船手のの事をよく存じたり
脇坂中書…四國の事をよく存じたり
平野遠江守…太閤の事をよく存じたり
佐久間備前守…同大膳 北國並奥州の事を存たり
細川玄蕃頭…上方の事を存たり
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