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気の利いた贈り物ができなくて、セパタクローを想う。

テレビで芸能人の人柄を評するとき、「あの人はとっても気遣いのできる人で」ということをよく聞く。差し入れにこんな素敵なものを持ってきてくれたとか、誕生日をこんな風に祝ってくれて嬉しかったとか。

それはもちろん素晴らしいことなのだけれど、聞いているだけで疲れてくる。私は「贈り物の文化」というのがどうしても馴染めない。

もともと買い物には時間がかかる。失敗したくないし低予算で済ませたいし、なんなら断捨離したいから出来るだけモノも増やさないよう厳選したい。だから自分の買い物でもくたくたになるのに、他人の喜ぶものを選ぶなんて、それはもう大仕事だ。

「なんでもいいの、なんでも貰えば嬉しいの、要は気持ちだから」というのも、わかる。私も貰えば嬉しいし、それを探して買ってきてくれた手間に愛情を感じたりする。だから本当に時々力を振りしぼって贈り物をすることもあるのだけれど、友達の家に訪ねて行ったのに手ブラ、という大人としてあるまじきことも多々あって、「あいつ気が利かないな」と思われていることもあるだろうし、親しい友達は私のそういう所を知っているので、もう諦めているとは思う。

女優の樹木希林は「貰わない」ということを徹底していたのが有名で、番組内で子役が心をこめて選んできたであろう贈り物を「私はこういうの貰わないから」とお断りするという場面を、私も見たことがある。(カメラがまわっていないところでも徹底していたのかどうかは知らないけれども)。

すごいな!と思う。私も、贈るのが苦手な代わりに貰うことも断固拒否、という姿勢を貫けばいいんだろうな、と思うけれど、そこが凡人の悲しいところで、私のために選んできてもらったものを断る勇気もなければ、なんなら貰えば嬉しいので、いつも大喜びで貰ってしまう。だから、大喜びで貰うくせにお返しはあんまりしない、という失礼極まりない人間が出来上がりつつある。

「買い物が楽しみで、贈り物を選ぶのも楽しいの」という人は、いいなあ、羨ましいなあ、と思う。だけど、どうやってもそういう人間になれない私は、いっそ贈り物文化が滅んでくれたらいいのに、と思ってしまう。(大喜びで貰っているくせに)。

でもようやく、そんな逡巡がだんだん薄まりつつある。無理をしない人生、というのが流行っているようではないか。ありのままでいいの、と歌ったら大ヒットしたじゃないか。私の無礼に嫌気がさした人は、静かに離れて行っているのだろうし、私だって気が向いたら手土産を買ったりするのだから。

決めない。贈り物しないとか受け取らないとか決めない。

決める。気遣いのできる人を目指さない。

贈り物が、交友を深めたり、誰かの励ましになったり、言葉にならない思いを伝えたり、そういう素晴らしいものであることは、私も知っている。私もいろんな贈り物に励まされてきた。だから、そういうキラキラした良いものが世の中が行き来することは、「いいね」と思う。でも、そこに頑張っていつもいつも参加することは、ちょっと私の能力不足のため、叶わない。叶わないけども、悲しまない。むしろ、憧れ続けて自己否定的になったり、無理して贈り物文化に参加し続けて勝手に疲弊する方が、周りには迷惑な気がするから。

例えるならば、運動が苦手なくせに毎回しぶしぶセパタクロー(足だけでやるバレーみたいなあれ)のサークルに参加するようなもので、イヤなら無理して来なくていいし、苦手で全然上達しなくていつもゲームの流れを止めるから、むしろ来なくてよし。でもセパタクローは素晴らしい競技だよね!…という感じ。

なので、私の友達は、これからも遠慮せずに贈り物をください。嬉しいから。もちろん貰わなくても「気が利かないな」などとは絶対思いません。自分がそうだから。あと、私もたまには贈り物をします。そのときは「セパタクローできないらしいけど、時々見学だけ来てちょっと参加するんだな」と生ぬるく見守っていただけたら幸いです。

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しじみ
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